イギリス帝国会議
1907年、それまでのイギリス植民地代表を集めた植民地会議を改称、自治領となった植民地のなかの白人統治地域を実質的な独立国家として扱いながら、イギリス本国との関係を強化するために開催された。1911年から不定期に開催、1926年にウェストミンスター憲章によってイギリス連邦会議に改称した。
その前身は1887年のイギリス植民地会議であり、1907年にイギリス帝国会議と改称した。単に「帝国会議」Imperial Conference ともいう。議会ではなく「会議」であることに注意。
イギリス本国とその植民地の内の白人自治植民地である自治領との協議機関として不定期に開催された。第1回は1911年で、第2回は1921年、第3回が1923年であった。
帝国主義諸国間の抗争が激しくなると、イギリス帝国の枠組みとして重要な存在となったが、各自治領では本国イギリスへの従属に次第に不満を持つようになり、特に第一次世界大戦では本国に多大な協力をしたことから、見返りとしての完全な独立を要求する動きが強まった。本国イギリスは、そのような自治領の要求を緩和する意味合いからも、1919年のパリ講和会議にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューファンドランドを独立国扱いで参加させた。
1937年を最後として帝国会議は開催されなくなり、1944年からはイギリス連邦首脳会議が開かれるようになった。
イギリス本国とその植民地の内の白人自治植民地である自治領との協議機関として不定期に開催された。第1回は1911年で、第2回は1921年、第3回が1923年であった。
イギリス自治領が参加
イギリス帝国会議の参加国は、当初はカナダ、オーストラリア連邦、ニュージーランド、ニューファンドランド(1713年からイギリス領。カナダとは別個な自治領であったが1949年にカナダ連邦に加入)で、1910年に南アフリカ連邦、1922年にアイルランド自由国が参加して最大6カ国(自治領)となる。帝国主義諸国間の抗争が激しくなると、イギリス帝国の枠組みとして重要な存在となったが、各自治領では本国イギリスへの従属に次第に不満を持つようになり、特に第一次世界大戦では本国に多大な協力をしたことから、見返りとしての完全な独立を要求する動きが強まった。本国イギリスは、そのような自治領の要求を緩和する意味合いからも、1919年のパリ講和会議にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューファンドランドを独立国扱いで参加させた。
イギリス連邦の成立へ
戦間期の1926年10月に重要な帝国会議が開催され、そこで自治領側の本国との対等な関係の要求に答えて、イギリス元首相のバルフォアが座長となって検討した結果、バルフォア報告で自治領の要求を認めることとなった。1930年の帝国会議でそれが決議され、翌1931年12月にウェストミンスター憲章が発表され、それによって「イギリス連邦」が成立することとなった。1937年を最後として帝国会議は開催されなくなり、1944年からはイギリス連邦首脳会議が開かれるようになった。