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シン=フェイン党

20世紀のアイルランドのイギリスからの独立を目指して活動した民族主義政党。結成当初は穏健な団体であったが、次第に武装闘争も行うようになり、第一次世界大戦後にはイギリスとの戦争を経て1921年にアイルランド自由国を成立させた。しかしその後は分裂が続き、勢力は次第に衰えた。第二大戦後は北イルランドのカトリック解放を掲げるIRAの政治組織となり、1998年に和平に応じた。その間、一時的な消滅や、分裂、変質が続き、現在では党勢は衰えている。

 アイルランドの民族主義政党、シン=フェイン党の名は日本でもよく知られており、高校世界史の教科書にもよくとりあげられるが、その説明には判りにくいところが多く、特に1916年のイースター蜂起との関係、IRA(アイルランド共和国軍)との関係などでまたかなり誤って伝えられている。特に、1920年代の独立戦争当時と第二次世界大戦後では同じ党名の政党でもかなりの違いがある。1970~80年代に世界を震撼させた北アイルランド紛争でのテロとの関係などで復活を遂げている。戦後については、高校教科書には取り扱われないが、現代世界を知るためには無視できない。以下の記事はアイルランド問題、北アイルランド紛争と重複しているのでそとらも参照して下さい。
 シン=フェイン党の歴史は、①初期のシン=フェインの時期 ②独立戦争を戦ったシン=フェイン党の時期 ③アイルランド自由国成立後の分裂と衰退 ④戦後の北アイルランド紛争での復活 の四期に分けて検討するのがわかりやすいようだ。ただし、高校世界史で扱われるのはほとんど②の時期に限定される。

① 初期のシン=フェイン

 アイルランドの独立を主張する新聞を発行していたアーサー=グリフィスが、1905年に「シン=フェイン Sinn Fein 」を結成したとされている。シン=フェインとは「われわれ自身で」という意味のアイルランド語で、17世紀以来イギリスの植民地となっていたアイルランドにアイルランド人による国家を樹立することを目指した。ただし当初はアイルランド語の復興などの文化運動を主とした穏健なグループを組織したものであり、共和主義を掲げる政党としての機能は持たなかったが、同調者の中には独立の実現のためには武力を行使することも辞さない急進派なども含まれていた。
イースター蜂起との関係 19世紀末、イギリス議会ではアイルランド自治法案が自由党のグラッドストンの努力で何度か提案されたが、いずれも上院の反対で否決されていた。ようやく第一次世界大戦が勃発した年、1914年にアイルランド自治法が成立したが、大戦勃発を理由に実施が延期されてしまった。それに対して、アイルランド独立を目指す急進派は、大戦中の1916年2月にイースター蜂起といわれる武装蜂起を行ったが、鎮圧されてしまった。シン=フェイン党は蜂起の中心にいたわけではなかったが、このときのイギリス軍による過剰な弾圧に反発したアイルラン人の支持が急速に集まってきた。
注意 イースター蜂起はシン=フェイン党そのものが起こしたのではなく、中心になっていたのはアイルランド共和主義同盟(IRB)という急進派だった。シン=フェイン党は党首グリフィスを始め主力の穏健派は加わらなかった。後にシン=フェイン党に加わり中心人物となるデ=ヴァレラは参加し捕らえられたが、アメリカ国籍だったので処刑を免れた。しかし、イギリス軍は過剰なまでの容赦ない殺戮で弾圧したために、アイルランドでの反英感情が急激に高まり、シン=フェイン党の独立の主張が広く受け入れられることとなった。このころまで「組織」にすぎなかった「シン=フェイン」は、1916年を境に明確な政党「シン=フェイン党」となった、ということができる。
 日本の高校世界史教科書、山川出版の『詳説世界史B』ではシン=フェイン党について、「イギリス人の多い北アイルランドはこれ(アイルランド自治法)に反対して、アイルランド独立を主張するシン=フェイン党と対立したため、政府は第一次世界大戦の勃発を理由に自治法の実施を延期した。シン=フェイン党などは反発して、一部の独立強硬派は1916年に武装蜂起(イースター蜂起)をおこしたが鎮圧された。」と説明している<2016年版 p.311-312>。同社の世界史用語集もイースター蜂起は「シン=フェイン党などの急進派が起こした」としている<2018年版 p.258>。また、現在のイギリス史の大家とされる近藤和彦氏の『イギリス史10講』<2013 岩波新書 p.263>でも、「1916年4月の復活祭にダブリンでシンフェインが武装蜂起し、鎮圧された」とはっきりと書いている。
 しかし、アイルランド史の専門家の説明は若干異なっている。この段階でのシン=フェイン指導者グリフィスはアイルランドの独立を目指すナショナリストではあったが、イギリスからの完全独立は武力の上から無理と考えており、目指したのはオーストリア=ハンガリー帝国におけるハンガリーのようにイギリスと同君連合となり独自の議会と政府を持つ高度な自治国家であったようだ。そのため、1916年の蜂起には反対した。それがなぜイースター蜂起はシン=フェイン党が起こしたとされているのか、次のように言っている。
(引用)シン=フェイン党が参加しなかった、IRB(アイルランド共和主義者同盟)が実権を持つアイルランド義勇軍中心の蜂起を英政府は故意か無知か、「シン=フェイン党の蜂起」と呼んだ。それで、皮肉にもシン=フェイン党は一挙に有名になってしまう。蜂起の指導者16人の処刑がさみだれ式にだらだらと進むにつれて、アイルランド中の雰囲気が変わっていった。処刑者のミサに群衆が集まり、多くの団体が蜂起した人々に同情する決議文をだし、民衆は蜂起をたたえる歌をうたい始め、蜂起指導者たちの写真が店のウィンドウに飾られ、後にアイルランドの国旗となる緑、白、オレンジのシン=フェイン党の三色旗が掲げられるようになった。……シン=フェインという名称はいつのまにか自己犠牲と英雄主義の象徴に変わっていった。アイルランド中がシン=フェイン党の主張も実体も分からぬままに、シン=フェイン党に参加するようになっていった。<鈴木良平『アイルランド問題とは何か』2000 丸善ライブラリー p.121>
 どうやら、厳密にはイースター蜂起はシン=フェイン党が起こした、とは言えないようだが、シン=フェインを広くアイルランドの独立派ととらえれば、彼らが蜂起した、と言っても誤りではなさそうだ。

② 独立戦争の時期のシン=フェイン党

 第一次世界大戦の末期、イギリス政府は徴兵制をアイルランドにも適用しようとした。それに対する反対運動がアイルランドで盛り上がった1918年12月にイギリス総選挙が実施された。この選挙は選挙法改正(第4回)によって男女普通選挙が行われた最初の選挙であり、大幅に有権者が増え、その多くが非富裕層であった。その結果、アイルランド選挙区ではそれまでのイギリス議会内で自治実現を目指していたアイルランド国民党は大幅に後退し、代わってアイルランドの独立を掲げるシン=フェイン党が大躍進した。
登院拒否戦術 しかし、デ=ヴァレラの指導のもと、当選した議員はイギリス議会に登院することを拒否した。このイギリス議会選挙に立候補するが当選しても登院を拒否する、という戦術はシン=フェイン党の得意の戦術としてこの後もしばしば用いられている。
アイルランド共和国の独立宣言 彼らは1919年1月21日、ダブリンで独自に国民議会を開催し、「アイルランド共和国」の独立を宣言した。また国際社会に独立を承認してもらうために、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議に代表を送った。しかし参加は認められず共和国大統領に選ばれたデ=ヴァレラはアメリカに訴えようと考えて単身渡米した。残った共和国政府では、IRBに属しているマイケル=コリンズが中心となってアイルランド義勇兵を組織、これが後のシン=フェイン党と協力する武装組織として活動するアイルランド共和国軍(IRA)の実質的な出発であった。
イギリスからの独立戦争 イギリスはアイルランドの独立を認めず1919年から武力衝突が始まり、アイルランド独立戦争となった。IRAはゲリラ戦術とテロでイギリス軍を苦しめた。それに対してイギリスは第一次世界大戦の復員兵を投入して無差別にアイルランド人を殺戮した。このイギリス=アイルランド戦争(英・アイ戦争)はアイルランド側からは独立戦争であり、このイギリスとの戦いの中からシン=フェイン党とIRAは党と軍隊として一体となって組織化されていった。
イギリスとの講和、アイルランド自由国の成立  戦争が長期化すると、イギリスは完全鎮圧が出来ず、またアイルランド側も軍事力でイギリスに勝てる見通しもなかった。両者の和平交渉が非公式で行われる中で、イギリスのロイド=ジョージ挙国一致内閣が打開策を示した。それは、北アイルランド(北部6州)を分離してイギリス領に残し、それ以外の南アイルランド(26州)はイギリス帝国内の自治領として実質的な独立を認めるという妥協案であった。ほぼその線で合意が成立、1920年にイギリス議会はアイルランド統治法を成立させ、それに沿ってアイルランドの南北で国民投票が行われた結果、それぞれ承認された。それを受けて1921年12月にイギリス=アイルランド条約が締結された。それは、北アイルランド(北6州)はイギリス領として分離し、それ以外の26州をアイルランド自由国としてイギリス帝国の中の自治領(ドミニオン)とする、というものであった。

③ シン=フェイン党の分裂

 この妥協案は、カトリック信者の多い居住地域のアイルランドの大部分と、プロテスタントの多い北アイルランドを分断するという、過酷なものであったので、受け入れるかどうかをめぐってシン=フェイン党とIRAはともに分裂してしまい、内戦となった。交渉に当たったシン=フェイン党のグリフィスやIRAのコリンズらは、戦争を終わらせることを優先し、またこの妥協は将来の独立への第一歩となると判断して条約に賛成した。彼らは統一アイルランド党またはフィン=ゲール(アイルランド人の部族という意味)とよばれる新党を結成した。
 それに対してデ=ヴァレラらは全島独立とイギリスからの分離を主張してアイルランド共和党またはフィアンナ=フォイル(宿命の兵士という意味)を結成した。両者の対立は武装闘争となり、アイルランド内の流血の悲劇が続いたが、1922年に議会選挙が行われた結果、南アイルランドでは再び受け入れ派が勝利したことにより「アイルランド自由国」は実質的に成立した。
 アイルランド自由国を率いたマイケル=コリンズは、実質的な独立を目指して国家機構の整備、国防軍の育成などを進めたが、反対派によって暗殺され、その後も自由国は苦難の道が続いた。 → アイルランド問題(20世紀)
シン=フェイン党の衰退 内戦は1923年に収束、デ=ヴァレラがシン=フェイン党に復帰し、さらに登院拒否戦術を捨ててアイルランド自由国の議会に参加したため、それに反対した党員だけがシン=フェイン党に残った。この頃のシン=フェイン党はまったくの反体制派、原理的な共和派、反英主義者だけの少数政党になってしまった。一方、IRAも闘争目標をなくし、活動はまったく停滞した。

④ 戦後の北アイルランド紛争での復活

 第二次世界大戦後、勢力の復活を目指すIRAとシン=フェイン党の両組織は1949年に合体することを決議、シン=フェイン党はIRAの合法的政治部門となった。構成員はほとんどが同じだった。この間アイルランドでは新党「人民党」などが民衆の支持を受けて台頭し、登院拒否戦術を守るシン=フェイン党は支持を伸ばせなかった。この時期になってもシン=フェイン党は、イギリス本国議会おおび北アイルランド地方議会に出席することはイギリス国王のもとの立憲君主政を認めることになるので、共和主義の原理に反するとして登院を拒否していた。
IRAの政治部門として活動 1950~60年代にはIRAとシン=フェイン党の活動は停滞していたが、60年代後半にアメリカ黒人の公民権運動に影響されて、北アイルランドにおけるカトリック信者が多数派のプロテスタントによって迫害されていることに対する反対運動が起こってきた。この北アイルランド紛争のカトリック教徒の解放を実力で勝ち取ろうという運動をIRAが開始すると、その政治部門であるシン=フェイン党も北アイルランドのベルファーストやデリーで組織を復活させ、IRAのテロ活動を支援した。彼らの武装闘争は、イギリスの警察と一体となったアルスター義勇軍などのプロテスタント側軍事組織の暴力に対抗するもので、両者の抗争はますます激化した。
度重なる分裂 ところが、1970年にIRAはソ連共産党の影響を受けてその支援を受けながらカトリック信者の保護には熱心でない主流派と、アイルランド人のナショナリズムを重視し武器によってカトリック信者を守ろうとするIRA暫定派といわれる武闘派に分裂してしまった。北アイルランドの武装闘争は、70年代はこの暫定派によって展開され、テロ活動が活発におこなわれたが、このIRA分裂の際にシン=フェイン党も分裂、暫定派と行動を共にしたグループはともに非合法化され、イギリス当局はインターンメントという逮捕状なしで逮捕し、裁判なしに処刑できるという前時代的なルールを作って彼らを取り締まった。
 1980年代のイギリスのサッチャー政権によって「密告者作戦」など、過激派テロ取り締まりが強化されると、反発したIRAがテロを行うというくり返しが続き、シン=フェイン党への支持も特にアイルランドでは低下していった。その情勢の中でシン=フェイン党は従来の議会登院拒否戦術を改めようとしたが、それに反対する原理派が脱退するなど、分裂が続いた。
和平の実現 ようやく労働党ブレア政権の下で北アイルランド紛争の解決のための協議が始まり、1998年4月10日に「北アイルランド和平合意」(聖金曜日合意)が成立、シン=フェイン党も北アイルランドの政党の一つとして協議に参加し、和平を実現させた。シン=フェイン党は、現在は北アイルランドだけを基盤とする地方政党的な存在になっており、北アイルランドの解放、具体的には北アイルランドからのイギリス軍の撤退、という闘争目標は宙に浮いた形となったため、低迷を余儀なくされているようだ。<以上、主として鈴木良平『アイルランド問題とは何か』をもとに要約した。>

北アイルランド議会でシン=フェイン党が第一党に

 2022年5月5日に投票が行われた、イギリス(連合王国)を構成する北アイルランド議会選挙において、シン=フェイン党が27議席を獲得、史上初めて第一党となった。改選前の第一党民主統一党(DUP)は2議席減の25席に留まった。シン=フェイン党はカトリック教徒が多く、アイルランドとの統一を支持しており、民主統一党はプロテスタントが多く、イギリスへの帰属を維持することを主張している。また北アイルランドの統一かイギリスへの帰属かという構図から一線を置く中道の同盟党が、改選前から9議席増の17議席を得て第三党に躍進した。
 シン=フェイン党のオニール副党首は7日、「新たな時代が到来した」と宣言したが、同党は選挙戦中はアイルランドとの統一問題は前面に出さず、生活費の高騰問題など暮らしに密着した争点を掲げていた。この選挙での勝利から一挙に統一に向けた住民投票に向かうとは考えられていない。また第一党から首相、第二党から副首相を出すのが原則となっているが、両党の調整は難航するものとっみられる。東京新聞 2022/5/9 ネット版 記事により構成>
 イギリスは2020年2月1日ヨーロッパ連合(EU)を離脱したが、北アイルランドではEU残留を希望する方が多かった。懸念されるのは、かつてのような熾烈な北アイルランド紛争の再発であり、今後の状況から目を離せない。<2022/6/2 記>

NewS 2024/2/3 シンフェイン党、自治政府で政権獲得

 2024年2月3日、イギリス領の北アイルランド自治政府の首相に、シン=フェイン党のミシェル・オニール副党首が選出された。北アイルランド議会では2022年の選挙でシンフェイン党が戦後はじめて第一党となっていたが、イギリスのEU離脱後の本国と北アイルランドの物流ルールをめぐって自治政府と本国政府が対立、事実上自治政府は機能停止に追い込まれていた。2024年2月に本国政府が物流ルールの見直しに応じたことで、自治政府の機能が再開されることとなり、それを受けて議会で新首相の選出となったものである。オニール政権は北アイルランド最初のシン=フェイン党政権であるが、ただちにアイルランド統一のための住民投票などの実施にふみきることはなさそう、と観測されている。 → 北アイルランドの項を参照
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書籍案内

鈴木良平
『アイルランド問題とは何か』
2000 丸善ライブラリー

イースター蜂起から1998年聖金曜日合意までを人物にスポットを当てて概説。

森ありさ
『アイルランド独立運動史』
シン・フェイン、IRA、農地紛争 1999 論創社

イースター蜂起・独立戦争の時期のシン=フェイン党・IRAを分析した研究書。