ウェストミンスター憲章(宣言)
イギリス帝国会議において1926年に規定された、イギリス本国と各自治領が対等な主権を認めたうえで、イギリス連邦を構成することを定めた憲章。1931年に法律化され、発足した。これによってイギリス帝国体制は白人入植植民地であったドミニオンによって構成されるコモンウェルスとそれ以外の植民地からなる二重構造となった。
第1次世界大戦後のイギリス自治領の地位向上
第1次世界大戦を総力戦で戦ったイギリスは、各自治領(ドミニオン)に協力を求め、その代償として戦後のヴェルサイユ講和会議への参加を認めた。ドミニオンは講和会議でも独自の調印権を与えられ、その条約の発効には各ドミニオン議会での批准が必要とされた。ドミニオンは戦後創設された国際連盟や国際労働機関(ILO)などの国際機関での代表権が認められた。ドミニオンはイギリスを「後見人」とする変則的な形であったが、国際社会に事実上の独立国家として登場した。1926年10月のイギリス帝国会議において、白人自治植民地である自治領(ドミニオン)側から、本国との対等な関係を要求する動議が出された。特に南アフリカ(の白人政府)とアイルランドは主権国家としての独立性を強く主張し、その確認が得られなければ帝国から離脱することを示唆した。
それをうけてイギリスの元首相バルフォアを座長とする委員会で協議された結果、バルフォア報告が出され、自治領側の要求通り本国との対等な関係に改め、同時に「イギリス連邦」として本国を旧植民地諸国が共同体(コモンウェルス)を作ることが提言された。それを受けて、1930年の帝国会議においてその報告が承認され、翌1931年12月にウェストミンスター憲章(宣言)Statute of Westminstar として制定された。
イギリス連邦の成立を宣言
この憲章は、イギリス自治領とイギリス本国の関係を規定しした。ここでいうイギリス自治領とは、カナダ連邦・オーストラリア連邦・ニュージーランド・南アフリカ連邦・アイルランド自由国・ニューファンドランド(1713年からイギリス領。カナダとは別個な自治領植民地で、1949年にカナダ連邦に加入)の6ヵ国をいう。これらの自治領は、イギリス連邦内において国王に対する共通の忠誠によって結合しているが、平等な地位にあり、それぞれ議会を持ち、自主的な外交権をもつ独立国家であると規定された。史料 ウェストミンスター憲章
連合王国、カナダ、オーストラリア連邦、ニュージーランド、南アフリカ連邦、アイルランド自由国、ニューファンドランドの各政府代表は、1926年、および1930年にウェストミンスターで開催された帝国会議にて、会議報告書における宣言と決議に合意した。(注1)英領コモンウェルスとは、イギリス本国、およびドミニオン諸国の連合体を指す。イギリス連邦と訳すこともある。
(イギリス国王の)王冠は、英領コモンウェルス諸国(注1)の自由な統合の象徴であり、諸国は王冠への共通の忠誠によって結びつけられている。それゆえに、王位継承や君主制に関連する法を改変するにあたっては、連合王国議会のみならず、ドミニオン(自治領)諸国の議会による同意も今後必要となるということを、本法の前文において明示しておくことが適切である。
ドミニオンの要請や同意によるものでなければ、今後連合王国議会によって制定された法はドミニオンの法にまで拡張されることはないということが、確立された憲政上の原則として認められる。(中略)
第一条 本法におけるドミニオンの意味 本法において、ドミニオンという表現は、以下のドミニオン、すなわちカナダ、オーストラリア連邦、ニュージーランド、南アフリカ連邦、アイルランド自由国、ニューファンドランドを指す(注2)。(中略)
第十一条 将来の法における植民地(コロニー)の意味 1889年法におけるいかなる解釈にもかかわらず、本法発効以後は、連合王国議会が制定するいかなる法律おいても、植民地という表現は、ドミニオンやドミニオンを構成する諸地域を指すために用いられることはない。(後略)<歴史学研究会『世界史史料10』2006 岩波書店 p.225>
(注2)南アフリカ連邦は1962年、アイルランドは1949年にそれぞれ分離。ニューファンドランドは1949年にカナダの一部となった。
ウェストミンスター憲章のポイント 1931年のウェストミンスター憲章は、イギリス帝国(直接的な関係を有する地域を含む「イギリス公式帝国」ともいう)が、国政上は、本国と対等の地位にある英領コモンウェルスの特権的な一員としてのドミオン諸国(白人入植地)と、従来通りの従属的な植民地(インドや香港などのアジア、ケニアやナイジェリアなどのアフリカなど有色人種地域)が併存する帝国=コモンウェルス体制に移行した。<秋田茂『イギリス帝国の歴史』2012 中公新書 p.201-202>
世界恐慌対策としての意味
ウェストミンスター憲章でイギリス連邦 British Commonwealth of Nations が成立したことによって、「イギリス帝国」The British Empire は終わりを告げた。それは、1929年の世界恐慌の発生に対する、帝国主義諸国がとった対応策であるブロック経済の形成という動きの一つであり、旧イギリス植民地諸国が、共通市場をつくり、資源供与などで協力し合う経済圏の形成という側面もあった。それは、第一次世界大戦後に明らかになったアメリカ帝国の勃興に対してイギリス帝国の衰退、またソ連を中心とした社会主義圏の形勢といった情勢の中でのイギリスの生き残り策でもあった。1932年7月にはオタワ連邦会議を開催している。第二次世界大戦末期の1944年には、イギリス連邦は、単にコモンウェルス The Commonwealth of Nations とのみ呼ばれるようになったが、これはイギリスの地位の低下し、カナダとオーストラリアが戦争での多大な貢献をしたことによって地位を高めたことによる。しかし、第二次世界大戦後に始まるヨーロッパの統合の動きに対しては、イギリスはイギリス連邦経済圏への依存意識が強く、乗り遅れることとなる。