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オタワ連邦会議

1932年、イギリスのマクドナルド挙国一致内閣がイギリス連邦の自治領諸国を招集し、ブロック経済体制を構築した会議。

 イギリスのマクドナルド挙国一致内閣が、世界恐慌下のイギリス経済の対応するために、1932年7月~8月にカナダのオタワに招集した、イギリス連邦(最近では「帝国=コモンウェルス」とも言われる)を構成する自治領(ドミニオン)諸国による経済会議。イギリス連邦経済会議、イギリス帝国経済会議、あるいはオタワ会議などとも言われる。

参加した自治領

 参加国は、イギリス本国と、カナダ連邦オーストラリア連邦ニュージーランド南アフリカ連邦アイルランド自由国ニューファンドランド(1949年にカナダ連邦に加入するまでは独立した自治領だった)の6つの自治領(ドミニオン)。それに加えてインドと南ローデシアが直轄植民地として参加した。

本国と自治領間の関税引き下げ

 イギリス本国からは枢密院議長ボールドウィンと大蔵大臣ネヴィル=チェンバレンが参加し、会議の主導権を握って、自治領の本国製品に対する関税の大幅引き下げ、あるいは連邦内の自由貿易を進展させようとしたが、カナダなど自治領側は本国に強く抵抗した。結局、連邦全体の包括的な協定は策定できず、オタワ協定と言われるものは実際にはイギリスと各自治領の個別の協定を総称したものに過ぎなかった。イギリスは各自治領との間で個別に関税引き下げの協定を結ぶこととなり、そのためかえって自治領から本国への輸出が増えるというチェンバレンが想定したこととは逆の結果となった。
 そのために、オタワ協定後、イギリスは自治領からの輸入超過となったが、実はそこで得られた自治領側の利益は、それ以前の本国に対する債務の返済に充てられたので、ロンドンのシティの金融機関に環流することになり、その意味でイギリスの金融支配が強まることとなった。このことは、イギリスの「ジェントルマン資本主義」が世界恐慌後もグローバルな支配力を維持した背景であった。<川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史 帝国=コモンウェルスのあゆみ』2000 有斐閣アルマ/川北稔編『イギリス史』世界各国史11 1998 山川出版社p.354>
 一般的にはこのオタワ協定によってイギリスを中心とした関税特恵体制によって結びつけられた貿易圏=関税ブロックが成立し、それを補完する通貨金融の経済圏=通貨ブロックであるスターリング=ブロックと相俟って、ブロック経済を構築したとされている。