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李大釗

中国最初のマルクス主義者の一人とされ、中国共産党の創設に関わった。国共合作(第1次)で孫文に協力。1927年、張作霖に殺害された。

李大釗

李大釗 1889-1927

 りたいしょう。日本に留学して早稲田大学に学んでいるとき、日本の二十一カ条の要求に憤激して反対運動を起こした。また河上肇らの著作からマルクス主義を知り、次第にそれに傾倒した。ロシア革命が起こると翌1918年11月に雑誌『新青年』に論文を発表し、ボリシェヴィキ革命の勝利を評価し、中国人民の決起を呼びかけた。それは啓蒙的な運動から、実践的な運動への転換を画することとなり、彼自身がその年、北京大学で学生たちと「マルクス学説研究会」をつくり、中国におけるマルクス主義運動の先駆となった。

中国共産党創設と国共合作

 北京を拠点とした李大釗は、上海の陳独秀、長沙の毛沢東らと共産党設立の準備を進め、コミンテルンとの連携により1921年7月に中国共産党を創設した。その後、中国共産党の指導者の一人として国共合作(第1次)を進めたが、1927年に蔣介石による上海クーデタで国共合作が決裂、北京で活動していた李大釗は奉天派の軍閥張作霖によって捕らえられ、殺害された。
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