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北京大学

1898年、戊戌の変法によって設立された学堂を1912年に北京大学と改称した。中国の近代文化の創出の拠点となる。文化大革命では造反派の拠点の一つとなった。

 北京大学の前身は、1898年に建てられた京師大学堂である。戊戌の変法の唯一の成果として存続していた大学堂を、日本の東京帝国大学に倣った近代的な大学に改組しようとして、1912年に北京大学と改称し、進化論の紹介で知られる厳復が学長となった。しかし当初は学問は科挙受験のための準備という伝統が生きており、北京大学も官吏養成所という性格から抜け出せなかった。
 1916年、袁世凱の死後、改革派の蔡元培章炳麟ととも反清運動を行い光復会を結成した)が学長に就任し、大学を自由な学術研究という本来の使命を持たせようと考え、大胆な教授陣の刷新を行った。雑誌『新青年』を刊行して文学革命の口火を切った陳独秀を文学部長として招いたのを初め、白話文学を提唱していた胡適、中国にマルクス主義を紹介した李大釗らが新たに教授陣に加わった。また若き日の毛沢東も北京大学付属図書館の事務補佐員として勤務していた。こうして、北京大学は文学革命、新文化運動の拠点となった。また、1919年には五・四運動では北京大学の学生が運動の先頭に立って闘った。

いち早く女子の入学を認めた北京大学

 1919年、鄧春蘭という女子学生が、北京大学学長の蔡元培に手紙を出し、入学を申し出た。蔡元培は保守派や政府の圧力をはね返し、学力さえあれば入学は可能という見解を示し、20年9月の試験で春蘭を含む9名の女子受験生全員が合格し、入学が認められた。女子新入生入学のニュースを報じた『北京大学日刊』はまたたく間に売り切れたという。東京帝国大学は戦前には女子には聴講しか認めず、入学を許可したのは戦後のことであるから、大学での男女共学は中国の方が早かったことになる。<菊地秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005 講談社 p.207>

文化大革命と北京大学

 1966年5月16日、毛沢東の号令でプロレタリア文化大革命が開始されると、まず北京大学でそれに呼応する動きが起こった。5月25日、北京大学の学生食堂に突如として壁新聞(大字報)がベタベタと張り出された。それには聶元梓(ジョウゲンシ、女性)ら7名が署名し、学長陸平が文化大革命に非協力的であることを攻撃していた。この女性は卒業生で哲学科講師の肩書をもち、しかも哲学科の党総支部書記でもあった。当時の大学は全寮制で学生は構内で生活していたが、学内に事務室を置いている共産党支部があらゆる権限を持っており、学長や教授よりも権威が強かった。教授や学生の出身、経歴、行動、思想傾向は檔案(タンアン)と言われる人事記録に記録され、それは極秘扱いで本人も読むことはできない。  文化大革命が始まると、学生は支部の事務室に押し入り、人事記録を焼き捨てる事件が発生していた。文化大革命を推進していた文革小組の陳伯達らが北京大学に来て演説し、煽動していたのだ。聶元梓は、文革の主張に沿って大学の古い体質を批判、学長「陸平は何をやっていたのか」と攻撃した。それに対して北京市党第一書記の彭真がわざわざ北京大学に赴き、「聶元梓に欺されるな」と呼びかけ、暴力で彼女らを抑えた。党中央の劉少奇は工作組を各大学に派遣、北京大学も封鎖され、デモ・集会は禁止、活動した学生は身柄を拘束された。そのため、運動はいったん収まったが、6月1日に新華社通信が壁新聞の内容を全国に流し、ラジオで放送され、さらに『人民日報』で一面に掲載されると形勢は一転、学生たちが学長陸平と党委員会のメンバーを引きずり出し、三角帽子を被せて顔に墨を塗り、自己批判を迫った。北京市委員会も陸平を免職せざるをえなくなり、学生の“造反”が成功、聶元梓は一躍文化大革命のヒロインとなった。
 聶元梓の大字報を広く知らせよ、と命じたのは毛沢東であり、彼は学生の蜂起を「20世紀のパリ=コミューンだ」と持ち上げた。後に明らかになったことによると、この大字報は毛沢東の決定を受けて(ひそかに)書かれたもので、文案も文革小組から指示を受けたものだった。<竹内実『毛沢東』1989 岩波新書 p.157-159>
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