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章炳麟

清朝末期の革命運動家で思想家。浙江省出身者で光復会を指導、光復会は1905年の孫文の中国同盟会結成に参加した。その後、孫文とは対立したが、中国思想やインドの仏教などをもとに帝国主義に抵抗しようという独自の理論で民族革命運動を指導した。

変法運動に加わる

章炳麟

章炳麟(章太炎) 1899
Wikimedia Commons

 章炳麟、しょうへいりん 1869~1936 号は太炎。19世紀末から20世紀初頭の中国革命を理論的に指導し、孫文・黄興と並んで「革命三尊」といわれたた重要な存在である。中国の浙江省余杭県で、清朝の同治7年(1869年)に代々の地主知識人(士大夫)の家に生まれた。科挙の県試は病気のため失敗したが、地元の学舎に学び漢学を修め、頭角を現した。1894年の日清戦争の敗北に衝撃を受けた章炳麟は、上海に出て新聞記者となり、康有為らが始めた変法運動に参加した。しかし、1898年、戊戌の政変で変法運動が弾圧され、章炳麟にも逮捕状が出されたため、日本に亡命、東京に逃れ、このとき孫文らとも識りあった。同年末には列強による中国分割が進行し、さらに、1900年の義和団事件は列強によって圧倒され、北京議定書で中国植民地化の危機が明らかになった。このような危機に、上海に戻った章炳麟は変法運動が挫折した理由を深く考えるようになり、康有為の清朝の帝政を維持した上で立憲政治を導入するということでは、列強からの真の独立を勝ち取ることはできないのではないかと考え、康有為らのいわゆる保皇派と決別した。

日本に亡命

 1902年、清朝政府による逮捕を逃れ、再び日本に渡って東京で活動すると、日本に留学してきた浙江省出身の青年がそのもとにあつまってきてそれが後の光復会の母体となったていった。上海に戻り蔡元培らの結社に加わった。そこで康有為らを批判して、明確に清朝=満洲人支配から漢民族を解放することを目指す主張を発表、宣伝を開始した。1903年に留学生に対して「支那亡国242年記念会」結成を呼びかけた(明の滅亡を南明の皇帝が死んだ1661年として、242年にあたっていた)。そのとき鄒容が発表した『革命軍』とともに清朝政府の厳しい取り締まりあい、逮捕され禁錮3年の刑を受けた。

光復会の結成

 章炳麟が逮捕された翌年、日露戦争が勃発した1904年に、上海でその影響を受けていた蔡元培を会長に正式に光復会が発足した。光復とは漢民族の栄光を復活させることを目指したことから名付けられた。他に陶成章、熊成基、秋瑾(女性)らがいた。蔡元培は開明的な知識人であり、後に北京大学学長となり五・四運動を支援した人物である。女性である秋瑾は日本に亡命中に光復会に加わり、帰国してから故郷の紹興で武装蜂起を実行したが失敗し、惨殺された。東京で章炳麟の演説を聴いた同じ浙江省の出身の魯迅も、光復会会員となった。

中国同盟会に参加

 章炳麟が入獄中の1905年8月20日、孫文は東京で興中会華興会光復会を加えて中国同盟会(中国革命同盟会)を結成、孫文を総裁に選出、彼が提唱する三民主義を指導理念とし、中国最初の本格的政党として清朝の打倒と漢民族の復興と近代的な統一国家を目指すこととなった。
 1906年に出獄した章炳麟は再び日本に渡り、中国同盟会に加入し、機関紙『民報』の編集人となり、革命派の言論の先頭に立った。日本の社会主義者幸徳秋水・堺利彦らとともに、インドの独立運動などの欧米の帝国主義に対するアジア民族の抵抗との連帯を主張した。そのような『民報』の内容を危険視した日本政府は、その発行を禁止、章炳麟は裁判に訴えたが敗訴した。そのため『民報』は地下で発刊を続けた。

中国同盟会と対立

 そのころから章炳麟は、中国同盟会の孫文の独裁的な運営に反発するとともに、革命路線の違いから対立するようになっった。1907年に孫文が日本を離れるときに日本政府から餞別として受領した金額をごまかして私腹に入れたと疑った章炳麟は孫文を厳しく批判し、袂を分かった。1910年に新たに章炳麟を会長、陶成章を副会長として光復会を再建した。光復会は反清朝という点では中国同盟会と行動を共にすることもあったが、多くの場合、対立的関係となった。
 章炳麟は中国伝統の老荘思想やインドの仏教思想などのアジアの固有の理念を背景にした確固たる自覚によって、西洋思想をもとにした強大な列強の帝国主義・植民地主義と戦わなければならないと原理的に考えたが、外交を取引を考える孫文は場合によっては列強と領土などでも妥協しても良いという発想だった点でも相容れない相違があった。

辛亥革命

 その間、清の滅亡への歩みは急速に速くなって、1911年10月、武昌蜂起から一気に辛亥革命が進行し、1912年1月1日、孫文を臨時大総統に選出して、中華民国が成立した。前年11月に上海に戻った章炳麟は、反帝国主義という主張の延長戦から、生まれたばかりの中華民国の安定を最優先と考え、孫文から枢密顧問に任命されたが意見が合わず、袁世凱に接近し、その高等顧問に就任した。しかし、袁世凱が宋教仁を暗殺したことでその誤りに気付き、こんどは孫文と黄興の起こした第二革命に協力した。第二革命が失敗した後、北京で袁世凱政府に捕らえられて三年間幽閉され、袁世凱死後に許されて上海に帰った。

連邦制の主張

 1917年には広州に行き、孫文が北洋軍閥に対抗して設立した広東軍政府(護法軍政府)に参加し秘書長となった。章炳麟はこの頃から国家のあり方として、孫文の革命による統一よりも、各省の自治を拡大して「連省自治」とする一種の連邦制国家を構想するようになった。同時に本来中国古代思想の学者であった彼は、中国の伝統文化を重視する「国粋」(日本の国粋主義の影響を受けた)を提唱するようになり、1920年代に孫文の中国国民党が共産党との国共合作(第1次)を進めたことに対しても、中国共産党を「ロシア党」と見なして反対した。このような章炳麟の思想は、国民革命の潮流から離れてゆき、1927年に実権を握った蔣介石の政府からも「反動分子」として逮捕状が出され、彼は「中華民国遺民」と自称して蟄居した。
 1931年の満州事変以降、日本軍の中国本土への侵略が始まると、章炳麟は憤激し、抗日の戦いを鼓舞、激励する文章を発表、蔣介石政府の不抵抗政策を非難し、学生の愛国運動を支持した。1934年には蘇州に移り、翌年、章氏国学講習会を開講して祖国の危急の中で国学(中国伝統の思想、学問)を守ろうとした。1936年には蔣介石に抗日のために共産党と協力することを具体的に提唱したが、その年6月14日に蘇州で69歳の生涯を終えた。

思想家としての章炳麟

 近代中国で常に変革を求めた章炳麟の思想の歩みには興味深いものがある。以下、『章炳麟集』の解説(近藤邦康氏筆)を参考にまとめてみよう。初めは康有為の変法に参加したが、変法の主体を皇帝に置いた康有為に対して、章炳麟はその主体を漢民族に置き換え、変法を革命に変質させた。そこには聖人=自覚的主体が人民=自然的客体を守るという大枠の中で、それまでの君臣、父子、夫婦、兄弟などの秩序秩序を重視した「小康=礼」の世から、平等と自由を重視する「大同=仁」の世という孔子によって予言された中国社会のあるべき姿に移行すべきだと考えた。さらに戊戌の変法後には、漢人と満人(あわせて黄人と言った)は一致団結して西方植民市支配者(白人と言った)の圧迫に抵抗せよと主張し、いわばナショナリズムを先取りした。光復会の命名にはその意味が込められていた。さらにインドの民族運動を通じて仏教思想に傾倒し、自我を克服した普遍的な救済の可能性を見出していった。
 その思想は宗教を基礎とする国民道徳と愛国心の増進を説き、それを「国粋」と称した。こうみると彼の思想は単に幾つかの思想体系をつなぎ合わせただけにのように見えるが、その生涯を貫いた思想の根源には仏教に基づいた厭世主義で弱肉強食を否定し、自分だけが勝とうとする心を超越した世界、それは各個体がそれぞれ固有の性質を持ち、多種多様であり、それぞれが自立し相互に侵害せず併存する世界、「散砂」の自由を抵抗の拠点にしようとしたものといえる。また20世紀の世界に対する視点には、次のような独自の高みにも到達していたとも言える。
(引用)章炳麟の哲学思想はその政治思想を一層徹底するはたらきをしている。章は反帝国主義の目標を掲げ、中国が清朝を打倒して列強を駆逐するとともに、インドと「神聖同盟」を結び、アジア各民族や黒人・赤人(アメリカ=インディアン)の解放を支援せよ、と主張した。また「豪右富民」が代議士となって平民を圧迫することを警戒し、代議制に反対して総統制を主張した。さらに資本主義の発展によって貧富の不平等が一層拡大することを警戒して、社会主義を提唱した。<西順蔵・近藤邦康編訳『章炳麟集』1990 岩波文庫 p.462 近藤邦康解説>
 近藤氏の解説では「章炳麟の思想は、主観・意志の力を極度に強調し、きわめて空想的なところがあるが、世界被抑圧民族解放運動の一部分としての中国革命にとって本質的な問題を提起したのである」とまとめている。<西・近藤編訳『章炳麟集』 p.463 近藤邦康解説>
 章炳麟の思想は、同じ浙江省の生まれて、彼が日本に亡命していた1908年に、日本に留学中に直接その教えを受けた魯迅に強い影響を与えている。章炳麟が逝去した1936年に「太炎先生(太炎は章炳麟の号)の業績は学者であったことより革命家であったことが大きい、と書いた。章に対する一貫して変わらぬ師弟の厚い情誼を感じながら、魯迅は章にやや遅れて1936年10月19日に亡くなった。
 毛沢東は1920年から湖南省の農村で湖南自治運動を推進していたが、そのとき、章炳麟は自説の「連省自治」の講演を長沙で行っており、毛沢東もそれを聴講したことが考えられる。毛沢東が章炳麟をよく読んでいたことはその著作でも述べられており、58~63年ごろには章炳麟の著作の一部を党幹部に配布している。その思想が毛沢東の政策にも反映していたことも考えられる。その後、中国での章炳麟思想の評価は、中国では農民階級の立場からその解放をめざしたものという評価と、地主階級の利益を代表する思想であるという評価の異なる意見が対立していたが、 文化大革命後にはさらに多角的な議論がなされており、章炳麟への高い学会的な関心は続いている。