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山東出兵

1927年以後、日本が北伐からの居留民保護の名目で3次にわたって派兵、中国の国民革命軍と衝突した。1928年には済南事件が起こった。

 蔣介石の率いる国民革命軍が、1926(昭和元)年に北伐を開始、広東から北上して、一隊は武漢、一隊は上海を目指した。北伐軍が上海に迫った1927年1月、イギリスは租界の居留民を保護するため、日本に共同出兵を要請した。しかしこのときは幣原喜重郎外相は出兵を断り、イギリスは単独出兵した。さらに3月には揚子江下流の南京での国民革命軍と軍閥部隊との衝突に巻き込まれた日本を含む居留民に多くの被害が出るという南京事件が起こった。アメリカは南京を艦砲射撃し、日本にも共同軍事行動を求めたが、このときも幣原外相は出兵を断った。しかし、国内では幣原外交を「軟弱外交」と批判する声が強まり、退陣に追い込まれた。替わった田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)首相が外相を兼任することとなり、北伐という情勢に対する田中外相の、いわゆる「積極外交」が展開されることとなる。
 なお、山東出兵中の1928(昭和3)年2月、日本で最初の普通選挙が実施され、無産政党から8名の当選者が出た。田中義一内閣は警戒心を強め、治安維持法の「国体」を否定する運動に対する弾圧を強め、3月15日に地下の共産党員およびその協力者に対する大弾圧を行っている。

田中外交による山東出兵

 1927年4月、上海を制圧した北伐軍は、上海クーデタによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立した。共産党と決別した国民党軍は、「国民革命軍」として北伐を継続することとなった。
第1次山東出兵 北伐を進める国民革命軍が日本人居留民の多い山東省に迫ったことを受け、1927年5月、日本の田中義一首相(外相兼務)は山東省への陸軍の出兵に踏み切った。日本軍が山東省に進出して牽制したために、国民党の北伐は一時中止された。
第2次・第3次山東出兵 国民革命軍は行動を再開、山東地域に迫ってくると、翌1928年4月、田中内閣は第二次山東出兵を実行した。日本軍の一部は済南まで進出し、1928年5月3~11日、国民革命軍と軍事衝突し済南事件が起こった。これを第3次山東出兵という場合もある。済南事件は、日清戦争以来の大規模な日中間の衝突事件であり、後の日中戦争の前哨戦として中国側に根強い日本に対する反感を呼び起こした。
 中国民衆の帝国主義諸国に対する悪感情は、それまでイギリスに対して最も激しかったが、済南事件以後は、専ら日本に向けられることとなり、中国における反日感情が燃え上がるきっかけとなった。
 日本軍が山東半島全域とその主要都市済南を占領したため、国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京を目指すこととし、1928年6月9日、北京に入城した。その数日前に北京を離れた満州軍閥の張作霖は、日本の関東軍の謀略である張作霖爆殺事件によって殺害された。
 山東出兵で派兵された日本軍は最終的には約10万にふくれあがり、中国側死傷者は約5千人を超えた。中国兵及び中国の民衆は日本兵・日本人に対する憎しみを募らせ、居留民保護どころか、在留邦人がしばしば襲撃され、それを受けて日本軍が増強されるという悪循環を重ねた。1929年3月末、和平交渉がようやく成立、5月に済南城から日本軍が撤退し、終結した。

日本外交における山東出兵

 1927年・28年の日本軍による山東出兵は、日本の政治情勢に深く関わっていた。その後の日中関係に大きな負荷を与えた山東出兵は、日本政府はなぜ決断したのか。外交という観点から見て正しかったのか。そのような問いに答える形で、戦後まもなく外交官森島守人は次のように答えている。
 昭和2年(1927年)3月、若槻内閣が金融恐慌の波に飲み込まれて倒れ、それまで国際協調を外交の基軸としていた幣原喜重郎外相も退陣、次の田中義一(陸軍大将)内閣となると首相は外相を兼ねて、いわゆる積極外交に転換した。当時、多くの国民は国際情勢にうとく、幣原外交が3月の南京事件でも日本軍を出兵させなかったことを、漠然と軟弱外交として非難する声が強かった。そこへ新たに登場した田中首相兼外相は、森恪(中国通の大物と言われた)を政務次官に、山本条太郎、松岡洋右を満鉄の正副社長に起用し、6月に中国各地から陸海外三省の出先首脳者を東京に招致し東方会議を開催した。田中外交はいわゆる積極主義・強硬外交であり、在華権益擁護のために積極的手段を方針とし、満蒙方面では単に権益保護には満足せず、満蒙を中国本部から切り離して折衝する方針をとった。
 その第1の具体化が山東出兵であった。
(引用)当時国内の一部には、居留民を一時安全地帯に引揚ぐべしとの議論もあり、外務省内には出兵反対の空気が強く、首相自身も出兵にいくらか躊躇の色を見せていたが、政友会内では南京事件をめぐる対内的考慮から出兵論が強硬で、強気な森次官が陸軍の一部と呼応して内外の反対を押し切って、遮二無二出兵まで引きずって言ったのであった。<森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』1950 岩波新書 p.2>
(引用)出兵の結果は蒋介石・国民革命軍の北伐を阻害し、いたずらに中国全土にわたって抗日風潮を激成したに過ぎず、ことに第二次出兵では済南で大規模な軍事衝突を惹起した。 「出兵の主目的たる居留民の現地保護を完うしえなかったばかりか、居留民中に多数の犠牲者を出し、中日関係に永年の癌を残したことはここで説くまでもない。出兵の主要動機が政友会の対内政策に出ていた点において、政略出兵の危険性を裏書したものであった。<森島『同上書』 p.3>
 第二に満蒙の治安維持を重視した点は、田中内閣だけではない。幣原外交もその点は重視していた。日露戦後の小村外交でも、清に対して満洲の治安維持を求めている。諸外国の例では、アメリカのウィルソン大統領は自国の権利を擁護するためにメキシコに出兵した。この措置は国際法上でも干渉 intervention として容認されているが、しかし、国際法上許容される出兵はあくまで臨機の措置に限られているのに対して、田中外交の場合は、満蒙の治安をわが国の責任と実力によって確保するという方針で、はじめから内政干渉を前提としておこなわれているという批判を免れない。<森島『同上書』 p.4>
 田中外交の積極外交への転換は、満蒙の利権をまもるためには満蒙の秩序の紊乱を許さないということっであり、それは昭和三年(1928年)春、張作霖の北京引き揚げに際して「禍乱満洲に及ばんとする場合には適切且有効な措置をとる」」という政府声明を出したことにも現れている。
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