南京国民政府
1927年、上海クーデタで共産党勢力を排除した蔣介石が南京に樹立した中国国民党の政権。翌年、北伐を完了して中華民国を統一。南京を正式に首都とした。日中戦争で南京を放棄し、重慶に移った。戦後南京に戻ったが国共内戦で破れ消滅。
第1次国共合作のもと、北伐の進む中で、共産党員を含む国民政府は広東から武漢に移動し武漢政府と言われていた。蔣介石は北伐を進める中で、共産党勢力の増大を警戒した民族資本家層や外国資本からの働きかけを受け、急速に共産党排除に傾き、1927年4月12日に上海クーデタを決行して共産党員を排除し、直後の1927年4月18日に、南京に南京国民政府(中華民国国民政府の南京政権)を樹立し、国民政府は分裂した。
蔣介石は1928年10月、国民政府主席に就任した。しかし、反蔣介石派も活動を続け、1931年5月には広州に汪精衛らによって臨時国民政府が作られた。このように南京国民政府は不安定であったが、一応の統一権力として存在し得たのは、蔣介石の国民革命軍の軍事力と、共産党の台頭を抑えるためにも蔣介石を支持していた浙江財閥および外国資本であった。
注意 日中戦争が長期化し、打開策を探った日本が、重慶に移った国民政府の受容人物で蔣介石と対立していた汪兆銘(汪精衛)を担ぎ出し、南京に親日政府を樹立させた。それも南京国民政府を名のっている。しかしこの政権は国民の支持を得ることができず、日本の敗北とともに消滅した。現在の中国では「偽政府」とされている。
第一次国共合作の崩壊
南京国民政府は、蔣介石などの中国国民党右派を核として、黄埔軍官学校出身で蔣介石とつながりの強い軍人が主力となって構成された、軍事色の強い政府で会った。それに対して武漢国民政府の汪兆銘らは国共合作の継続を決めていたので、蔣介石を除名するなど対抗措置を取った。しかし、武漢政府内にも次第に反共産党にまわり蔣介石に同調する右派の勢力が強まり、共産党員に対するテロが始まったため共産党員は離脱、1927年7月15日、汪兆銘は共産党との決裂を表明し、ここに第一次国共合作は崩壊した。武漢政府は9月には南京政府に合流した。中国の統一
蔣介石は北伐を再開、国民革命軍を北上させると、日本は居留民保護を口実に介入して山東出兵を行い、1928年5月3日には済南事件で国民革命軍と日本軍が衝突した。蔣介石は日本軍との全面対決を避けて迂回し、北京に迫り、1928年6月9日に北京に入城して軍閥政権を倒し、中国統一を完成した。蔣介石は1928年10月、国民政府主席に就任した。しかし、反蔣介石派も活動を続け、1931年5月には広州に汪精衛らによって臨時国民政府が作られた。このように南京国民政府は不安定であったが、一応の統一権力として存在し得たのは、蔣介石の国民革命軍の軍事力と、共産党の台頭を抑えるためにも蔣介石を支持していた浙江財閥および外国資本であった。
注意 日中戦争が長期化し、打開策を探った日本が、重慶に移った国民政府の受容人物で蔣介石と対立していた汪兆銘(汪精衛)を担ぎ出し、南京に親日政府を樹立させた。それも南京国民政府を名のっている。しかしこの政権は国民の支持を得ることができず、日本の敗北とともに消滅した。現在の中国では「偽政府」とされている。