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熱河作戦

1933年2月、日本軍が中国北東部、満州国に隣接する熱河省に侵攻、占領地を拡大。国際的非難が高まり、国際連盟総会は日本軍の満州撤兵を可決。それをうけ3月、日本は国際連盟脱退を通告した。5月塘沽停戦協定が成立したが、陸軍は華北分離工作と内モンゴル工作を進めたため、日中関係は悪化し、1937年の日中戦争につながった。

 熱河(ねっか)省は万里の長城の北側に広がる中国北東部の省(現在は河北省に入る)で、中心都市の承徳は清朝の避暑のための離宮が置かれ、夏期の間は政治の中心機能を持っていた。離宮の北方には清朝の康煕帝や乾隆帝が建てたチベット仏教の壮大な寺院があり、「熱河八大チベット寺院」と言われている。また、熱河省はアヘンの産地としても知られていた。

日本による満州国建国

 1931年9月日本の関東軍満州事変を起こし、翌1932年3月には満州国を建国した。満州国は中国の東三省と言われた黒竜江省、吉林省、遼寧省をその支配下に収めたが、南西に隣接する熱河省については満州国の領域に含むと宣言したものの、そこまで手がおよんでいないのが実態であった。
国際連盟のリットン調査団 中華民国政府(南京の蔣介石政権)は、日本の侵略行為を国際連盟に対し提訴、それを受けて派遣されたリットン調査団は、1932年2月29日に来日、中国の現場も実地に検分し、1932年10月に報告書を公表した。その結論は、日本の満州における権益は認められるべきではあるが、満州事変は侵略行為であり、満州国も自らの意志で建国されたものとは認められない、と認定した。この報告書を受け、国際連盟では日本に対する処置が審議されることとなった。

日本軍の熱河侵攻作戦

 すでに1932年9月に締結されていた日満議定書で、満州国に駐屯することを認められていた日本軍は、熱河省も満州の範囲であると主張、その地域で活動する中国の張学良軍を排除するという目的で、1933年2月23日に熱河省に侵攻する熱河作戦を開始した。
 作戦そのものは、日本軍は航空機、戦車、装甲車を動員した機械化部隊による猛攻を加え、熱河高原を押さえ、万里の長城の東端である山海関を占領し、3月4日には省都の承徳を占領した。中国軍も激しく抵抗したが、北平(北京)にいた張学良は戦線を掌握することができず、東北四省(東三省と熱河省)すべてを失った責任をとって3月11日、国民政府軍事委員会北平分会長を辞任、何応欽に交代した。
 こうして関東軍は熱河省を手に入れたが、さらに進軍を続け万里の長城に迫った。この事態に驚いた中央では、天皇の意向もあって進軍を停止する命令を出した。現地の関東軍は一時、進軍を停止したが、中国軍が撤退しないことを口実に進軍を再開(長城作戦)し、5月下旬には北京(当時は北平といった)から30~50km地点まで迫った。
熱河省のアヘン 熱河省はアヘンの産地として有名だった。作戦を立案した関東軍参謀部第二課はアヘンの原料であるケシ栽培に損害を与えないよう前線部隊に情報を伝え、ケシの播種期である4月初旬前に熱河作戦を完了させようとした。関東軍が主要な財源としてアヘンを重要視していたことが分かる。<及川琢英『関東軍』2023 中公新書 p.170>

国際世論の悪化

 この熱河作戦は現地軍の独断ではなく、1933年1月に時の齊藤実内閣の閣議で決定され、昭和天皇の裁可を得て行われた。日本政府と天皇の判断は、すでに満州国は独立し、その満州国との間で結ばれた日満議定書に基づいて治安維持のために軍を動かすのであるから、国際世論からも容認されるであろう、ということであったようだが、そうはならなかった。
日本の国際連盟脱退 おりから満州問題を審査していた国際連盟はこのような日本軍の行動に反発し、リットン調査団の報告をうけて1933年2月24日、国際連盟総会は満州国樹立を否定し、日本軍の本来の満鉄沿線地域までの撤退を勧告する決議が42ヵ国の賛成、反対1(日本)で可決された。それに対して日本は、1933年3月27日に国際連盟を脱退するに至った。

天皇が悩んだ熱河作戦

 陸軍の構想した熱河作戦は、日満議定書で認められる満州国内での治安活動として行われ、1933年1月に閣議決定し、昭和天皇にも裁可された。しかし、上海事件が起こると中国は、連盟規約第15条の「国交断絶にいたる虞のある紛争が発生したとき」に該当するとして、第16条の「第15条による約束を無視して戦争に訴えたる連盟国は、当然、他のすべての連盟国に対し、戦争行為をなしうるものと見なす」という条文の適用を主張した。
 海軍出身である斉藤首相は、熱河作戦の実行はこの連盟規約第16条に当てはまる恐れがあり、そうなると日本は「すべての連盟国の敵と見なされる」こととなれば、通商上・国際金融上の経済政策を受けることになる、と気がついた。2月8日、斉藤首相は昭和天皇のところに駈け込み、熱河作戦を決定した閣議決定を取り消すので天皇の裁可も取り消して欲しいと頼んだ。天皇はそれを了承して侍従武官に熱河作戦の中止を求めた。しかし、侍従武官奈良武次と元老の西園寺公望は、天皇が一度出した許可を撤回すればその権威は決定的に失われ、陸軍などの勢力が天皇に対して公然と犯行し始める恐れがあると考え、天皇に撤回を思いとどまるよう、説得した。
(引用)自分の考えに従うことを禁じられた天皇はとても苦しみます。奈良の日記には、2月11日の記述として「ご機嫌、大によろしからず」と、天皇の様子が書きとめられています。また、斉藤首相の申し出を聞いてはいけないと、と止めた侍従武官に対して天皇は、「統帥最高命令により、これ(熱河攻撃)を中止せしめえざるや、と、やや興奮あそばされて」、いま一度尋ねていたことがわかります。どうにか自分の命令で止められないか、と興奮しつつ話された。<加藤陽子『それでも日本人は、「戦争」を選んだ』2009 朝日新聞社 p.311>
 加藤氏は「このとき、斉藤首相と天皇の考えのとおりになっていれば、日本の歴史はまた別の道を歩んだかも知れないと私は思っています」と感想を述べている。熱河作戦は、世界史的には満州事変から日本の国際連盟脱退までの一コマに過ぎない扱いだが、日本にとっては大きな曲がり角であったことは確かだ。日本が国際連盟を脱退してしまおうとただヤミクモに突き進んだのではなく、国際協調や国益を考えて立ち止まる可能性もあったのだ。しかし、軍という暴力装置の前には天皇も内閣も如何ともできなかったのだろう。
閣議で決定された国際連盟脱退 2月20日の閣議で、齊藤実首相は、このままでは国際連盟から経済制裁を受ける恐れが出てくること、また除名という日本の名誉にとって最も避けたい事態も考えられるとして、連盟の準備していた日本への勧告案が総会で採択された場合には自ら連盟を脱退する、という方策を決定していた。この決定の2日後の2月22日に日本軍は熱河に侵攻し、さらに2日後の2月24日に国際連盟総会で日本軍撤退決議が可決され、松岡代表は議場から退場した。
塘沽停戦協定 日本軍が北平(北京)に迫ったことは、アメリカ・イギリスなど国際世論を硬化させたため、日本は停戦をたらきかけた。共産党との内戦を優先した蒋介石政府も日本の侵攻を食い止めるために交渉に応じ、1933年5月31日、現地の軍当事者間で塘沽停戦協定を締結した。それによって中国国民政府が熱河省を含めて事実上、満州国として認め、張学良軍は駆逐され、日本の満州支配は所期の目的を達した。しかし、それは幅広い国際世論の反発を生み出し、日本は国際連盟理事国という国際的地位を放棄し、孤立の道を選ぶという代償を払わざるを得なくなった。
 国民政府の蒋介石にとっては華北に迫っている日本軍を全力をあげて戦うことができない事情があった。それは、国共分裂以来、中国共産党は農村を拠点として国民政府との内戦で優位に立とうとしていた。共産党との戦いを優先するため、蒋介石は対日妥協へと転じた(安内攘外)。  → 盧溝橋事件  日中戦争