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塘沽停戦協定

1933年5月、日中間に締結された満州事変の停戦協定。日本軍が華北に侵攻したことを受けて国民党政権が妥協し、成立した。中国は事実上、満州国を認め、長城以南の河北省の東部を非武装地帯とすることで合意した。以後、日本軍は中国側の協定違反を口実に、軍事行動を続けることとなった。

 塘沽(タンクーまたは、とうこ)は中国の天津近郊の地名。満州事変は1931年に勃発、戦線は全満州に拡大、さらに1933年2月、日本軍が熱河作戦を実行し、隣接する中国本土の熱河省に侵攻してさらに長城を越え中国本土に及んだ。中国国民政府蒋介石は共産党との内戦を優先するという事情から対日妥協に転じ、日中双方に停戦の動きが出て、1933年5月31日に塘沽において停戦協定が成立した。
 この協定は塘沽協定、あるいはタンクー協定とも言われ、またこれによってできあがった華北の日中間の一時的な均衡を塘沽体制ともいう。満州事変以来の戦火はいったん収束したが、同時に日本軍が華北に侵攻する口実も準備されており、1935年にこの協定の延長線上に梅津・何応欽協定が締結されたことよって日本軍による華北分離工作本格化し、さらに1937年の日中戦争へと続いていく。<古屋哲夫『日中戦争』1985 岩波新書 p.86>

日本軍の中国本土侵攻

 満州事変後、日本は満州国を成立させ、さらに関東軍は隣接する熱河省を「満州国の予定領域」と称して、1933年2月23日熱河作戦を開始、山海関を占領し、さらに一部は万里の長城を越えて中国本土に迫った。中国政府は日本軍の北京(当時は北平といった)侵攻を恐れ、北京の故宮の重要文化財を南京に移送を始めた。
 蔣介石は、依然として「安内攘外」(日本との戦いよりも対共産党作戦を優先する戦略)を唱え、わずかな兵力を差し向けただけで、日本軍の侵攻を防げず熱河が失陥したことの責を張学良に負わせて軍政部長から辞職させた。その上でひとまず日本軍の進撃を食い止めるため、停戦に踏み切った。

日本と中国国民政府の停戦協定

 1933年5月31日、塘沽において、日本の関東軍参謀副長岡村寧次やすじ少将と国民政府軍事委員会北平分会総参謀熊斌ゆうひんの間で締結された。協定により中国軍は北京の東方、河北省の一部の通州と塘沽を結ぶ線の東方からも撤退して非武装地帯を設定することを認め、日本軍は長城線まで退くと同時に、こととなった。それは、事実上、日本の東北三省と熱河省の占領を黙認し、満州国の存在を認め、さらに中国政府は河北省19県の統治権を喪失することを意味していた。関東軍は一連の軍事行動をこの協定でいったん停止し、長城線以北に撤退した。
塘沽停戦協定の問題点 塘沽停戦協定は、現地の軍の代表者が署名する軍事的協定として締結されたもので、両国の政府間で結ばれたものではなかった。またこの停戦は、一般に満州事変の終結を意味するものと見られていたが、同時に関東軍の野心が満州にとどまらず華北に向かっていることを内外に印象づける結果となった。関東軍はこの協定に従い長城以北(関外)に引き揚げたが、協定の一項で中国側が抗日運動を取り締まることが義務づけられ、それを履行しないときには日本側が武力を行使する余地を残していた。それが後に、華北での抗日の動きが強まったことに対し、日本グインは塘沽停戦協定の履行と違反に対する懲罰を要求して、1935年に梅津・何応欽協定を強要したことにつながる。<秦郁彦『日中戦争史』1961 河出書房 p.6>
 またこのとき、中国政府が日本政府に抗議した際、広田弘毅外相は軍事事項である塘沽停戦協定の延長線上にある問題には政府は関与しない」という態度をとった。このように現地軍がすすめる侵略行為を政府が止めることができない、という事態になっていたことを示している。

華北分離工作への転化

 その後、日本軍は塘沽停戦協定で非武装化した地域を、関東軍とは別に支那駐屯軍(1900年の北清事変に際して北京に駐屯を認められた軍隊)の支配下におき、中国本土への進出拠点とすべく、華北分離工作を進めることとなる。それは1935年6月梅津・何応欽協定の強要から具体化し、日本の傀儡政権冀東防共自治政府の樹立に向かうが、このような侵略に対する中国民衆の反対運動も強まり、1935年中国共産党八・一宣言で抗日民族統一戦線戦線の結成を呼びかけ、北京の学生は1935年12月9日に十二・九学生運動で日本に対する抗議行動を行った。日本国内では中国に対する強硬論が台頭することとなる。 → 盧溝橋事件  日中戦争