第2次国共合作
日中戦争の勃発を受け、1937年9月、中国国民党と共産党が抗日民族統一戦線の結成で合意した。両党は協力して日本軍と戦い、1945年8月に勝利した後、1946年6月より第2次内戦に突入した。
第1次国共合作の崩壊・第1次国共内戦
1937年7月に勃発した日中戦争において、中国側の国民党と共産党が日本帝国主義に対する抵抗(抗日)で一致した戦いを組んだ。日本の中国侵略に対して、国民党と共産党の両者は、1924年から1927年まで、第1次国共合作を成立させていたが、1927年の蒋介石の上海クーデタによって崩壊して以来、対立を深めていた。1931年に満州事変が起こっても、国共内戦(第1次)をくりかえす両者は日本の侵略に対する一致した抵抗をしなかった。人民戦線と日本の華北分離工作 そのころファシズムの台頭に対抗するため、コミンテルンは反ファシズム人民戦線への戦術転換を行い、中国共産党はそれを受けて1935年8月1日に抗日民族統一戦線の結成を呼びかける八・一宣言を発表した。満州事変後も日本軍の侵略は熱河作戦、華北分離工作と続くと、民衆の中に一致した抗日を求める声が高まり、1935年12月には十二・九学生運動が北京で繰り広げられた。
西安事件 国民党の蒋介石は共産党との内戦を優先し、国共合作に否定的だったが、情勢を大きく転換させたのが、1936年12月の西安事件だった。立役者は旧東北軍閥の張学良であり、国民党の蔣介石を西安で軟禁し、中国共産党との内戦停止と国共合作を強く迫った事件だった。蔣介石がようやく同意し、共産党の協議に合意した。
1937年7月の盧溝橋事件の勃発によって、日中戦争の全面戦争状態となり、日本軍の中国本土への侵攻が本格化した。戦火が第2次上海事件に飛び火し、全面的な戦争となったことを受け、西安事件での合意に基づき、国民党と共産党は1937年9月23日、正式に第二次国共合作が成立した。
国共合作宣言
9月22日にまず共産党が国共合作宣言を発表し、翌23日に蔣介石がそれを受諾する談話を公表する形で行われた。共産党は声明で、「現在の大目標」として、- 中華民族の独立・自由・解放、
- 民権政治の実現、
- 中国国民の幸福・愉快の生活の実現
- 三民主義の徹底的実現、
- 「国民政府の打倒と土地没収政策」の取り消し、
- ソヴィエト政権の取り消し、
- 紅軍の国民革命軍への改編