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東亜新秩序

1938年11月、日本の近衛内閣が出した中国政策の新方針。日中戦争の目的を「東亜新秩序」の建設にあると表明し、国民政府にかわる親日政権の出現を模索した。

 日中戦争の過程で、1938年11月3日、日本の第一次近衛文麿内閣(1937.6~39.1)が出した声明で、中国国民政府内の親日派(反蔣介石派)との提携を進めるため、この年1月の第一次声明「国民政府を相手とせず」を撤回したもの。第二次声明である「東亜新秩序」とは、日中戦争の目的は、東亜(東アジア)に永遠平和を確保できる新秩序の建設にあるとしたうえで、中国の国民政府が従来の方針(共産党の国共合作)を捨ててこの新秩序建設に参加することを拒否しない、ということが骨子であった。つまり、従来の中国国民政府を無視する策を改め、東亜新秩序の建設という大義名分により交渉を再開する姿勢を示したものであり、ここでいう東亜とは日本、満洲、朝鮮、日本の東アジアのことであった。
注意 第1次近衛内閣は、は第1次・第2次・第3次の三回の声明を出しているが、それぞれ意図が異なるので注意しよう。また第2次近衛内閣(1940.7~41.7)は「大東亜新秩序」が表明されるがそれは東亜新秩序を拡張したもので、大東亜共栄圏の構想のもととなった。 → 近衛文麿内閣の項を参照。

日中戦争の打開を模索

 この第二次声明「東亜新秩序」の背景は、当時日本軍は広州・武漢などを攻略したものの、重慶に遷った蔣介石の国民政府軍を追いつめることが出来ず、日中戦争の終結をどうはかるか苦慮していたことが挙げられる。日本軍は局面を打開するためにひそかに国民政府の反蒋介石勢力である汪兆銘(汪精衛)と接触し、重慶政府の分裂を図っていた。この声明はそれへの呼び水の意味をもっていた。
 同年12月、重慶を脱出した国民党の汪兆銘が、ハノイに到着すると、近衛内閣は第三次声明「善隣友好、共同防共、経済提携」を和平交渉の三原則とすることを発表して中国に新政権が成立することを促し、汪兆銘は抗日戦を中止することを日本に伝えた。汪兆銘は日本政府の期待を受けて1940年3月30日、南京国民政府を樹立、日本政府はこれを正統な政府と認め、和平交渉を進めていくこととなった。
 しかし、重慶政府は米英の援蔣ルートによる支援を受けて各地で抵抗し、共産党軍もそれに呼応して抗日戦を継続、南京国民政府への国民的支持は広がらなかった。さらに近衛内閣は軍部との関係を悪化させ、近衛自身も政策遂行に限界を感じて1939年1月に総辞職し、代わって平沼騏一郎内閣が成立、陸軍は日中戦争の実力による解決を目指してヨーロッパにおけるナチスドイツとの提携を強めるための日独伊三国同盟を推進していった。

大東亜共栄圏へ

 1940年7月、再登板となって第二次近衛内閣が成立、「基本国策要項」作成、その中で戦争の新たな大義名分として示した「大東亜新秩序」は、1938年の東亜新秩序が中国のみを対象していたのに対し、ひろく東南アジアを含むアジア全体に絶対平和を実現する秩序として、日本による支配を打ち立てることを掲げたものであった。その精神を具現化したものが大東亜共栄圏の構想であった。そのような東南アジアへの勢力圏の拡張は米英との対立を先鋭化させ、翌1941年12月8日の太平洋戦争へと向かうこととなるが、その戦争を日本は大東亜戦争と称したのだった。
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