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国民政府(中国)

辛亥革命後の中華民国の政府を言うが、特に北京の軍閥政府に対抗して孫文が1919年に組織した中国国民党の樹立した政府をさす。幾度かの分裂対立が続き、その首都も南京、広東、武漢、重慶を転々とした。日中戦争後、南京に戻ったが、共産党との内戦が再開される中、1948年に「中華民国政府」に改称した。

 「国民政府」とは、「中華民国国民政府」のことで、中華民国の政府を意味するが、特に軍閥政府に対して反発した勢力が称した政権名である。それも時期によって、いくつかの政府があるためわかりにくくなっている。「国民政府」と称した政権を段階的にまとめると次のようになる。

前史(1911~25年)

 辛亥革命によって1912年正月に孫文を臨時大総統とし南京を首都に中華民国が成立したが、北京(当時は北平といわれた)には袁世凱がなおも実権をにぎっており、中国は分裂状態となった。1913年には孫文らを弾圧した袁世凱が北京で正式な中華民国初代大総統に就任した。その後、1916年の袁世凱の死後も北京には軍閥政権(北京政府)が交代した。それに対して孫文(中華革命党)は、1917年9月10日に広東軍政府を組織して軍事的に抵抗した。この政府は、中華民国において、北京の軍閥政府と対抗する、最初の国民政府としての意義をもっている。しかし、広東軍政府も広東とその周辺の地域軍閥の寄せ集めという面が強く、孫文の思想に同意して結集したものではなかった。そのため、間もなく内部抗争が表面化し、孫文は敗れて広州から上海に逃れざるを得なくなった。
中国国民党の結成 そのような中で起こった1919年の五・四運動の後、孫文は中国国民党を結成し、新たな中華民国の政治勢力を作り、「国民革命」を実現しようとした。一方、1921年にはマルクス主義政党の中国共産党が成立し、この両者はコミンテルンの働きかけもあって北京軍閥政府と帝国主義の侵略に対抗しようとして1924年1月に中国国民党一全大会を開催して第1次国共合作を実現させた。ここから始まる軍閥政府を倒し中国統一をめざす運動を、国民政府は国民革命と意義づけている。孫文はそれまでの運動の失敗を反省し、革命には本格的な武力が必要と考えるようになっており、ソ連との提携も革命軍の強化が一つの狙いだったので、その面で孫文の意を体して登場したのが蔣介石であった。

1.広州国民政府(1925~27年)

 孫文は1925年3月に死去したが、5月には上海で五・三○運動が始まって反帝国主義、民族主義の運動が高まったのを受けて、中国国民党は広東一帯の地方軍閥軍を討伐して、1925年7月に広州で「広州国民政府」(広東政府、広東国民政府とも言う)を樹立した。主席は汪兆銘(汪精衛)で、これが最初の「国民政府」を名乗る政府である。これで中華民国には北京の軍閥政府と広州の国民政府の二つの政権が併存する形となった。1926年7月、広州国民政府は、蔣介石を司令官として北京軍閥政府を打倒するための北伐を開始した。

2.武漢国民政府(1927年2月~7月)

 北伐軍が長江中流の要衝である武漢を占領したことにより、1927年1月1日に国民政府は武漢に移転し、武漢を首都とする武漢国民政府が成立した。蔣介石は南昌への移転を主張し、武漢移転に反対したが、ここでは国共合作の維持をはかる左派が主導権を握った。このとき、民衆が武漢のイギリス租界の回復を要求して決起し、武漢政府がイギリスと交渉して自力で回収するという成果を得た。武漢政府は1927年2月に正式に発足したが、その内部には孫文の意志どおり国共合作を維持しようとする左派の汪兆銘と、共産党の排除をねらう蔣介石ら右派の対立があった。蔣介石の背後には上海の浙江財閥といわれる民族資本があった。彼らは五・三〇運動のような労働者の運動が民族資本に向けられることを警戒し、国民政府の中の共産党勢力を排除することを蔣介石に期待した。また北伐が租界回収などのナショナリズムの要求となることを恐れたイギリス、アメリカ、日本などの帝国主義諸国も強い危機感を持った。

3.南京国民政府(1927~31年)

 1927年4月12日、蔣介石は上海クーデタ(四・一二事件)で共産党弾圧を開始、共産党を排除することに成功して、ただちに1927年4月18日南京国民政府」を樹立した。これによって国民政府は南京と武漢に分裂した。武漢政府はなおも国共合作を維持していたが、やはり右派が台頭して、対立が激化し、汪兆銘は7月15日失脚、9月に南京国民政府に統合された。
 翌1928年、南京国民政府(国民党の蔣介石政権)は北京の軍閥政府を倒し、北伐を完了させ、1928年6月に全国統一宣言を発した。さらに同年末には満州軍閥の張学良が「易幟」を行って国民政府への帰属を表明したため、国民政府の統治領域は満州に及んだ。
中国の統一 国民政府による中国統一が達成されたことにより、中華民国の首都は名実ともに南京と定まり、北京北平に改められた。さらにアメリカは国民政府を承認し、1928年7月関税自主権の回復を認め、12月までにドイツ、イギリス、フランスなどがそれに続いた。しかし日本は北伐から居留民を保護する口実で山東出兵を行い、1928年5月には済南事件で国民政府軍と衝突し、その後の和平交渉が難航して1929年3月までかかったため、国民政府の承認は1929年6月、関税自主権の回復を認めた新関税協定の調印は1930年5月となった。
 国内では1928年10月、中国国民党は「訓政綱領」を発表、現段階は孫文の示した三段階の軍政期が終わり、訓政期に入ったと規定した。それは国民を政治に参加させるものではなく中国国民党=蔣介石が国民を指導する、という体制であり、「国民会議」は党の指名するものを代表とし、憲法制定までの準備期間の基本法とされた「訓政時期約法」では国民政府首席に大きな権限が与えられていた。その上で1928年10月、蔣介石が国民政府主席に就任した。
内戦状態なおも続く 統一が達成されたと言っても蔣介石政権が安定していたわけではなかった。軍閥は解散したが、その残存勢力と国民党の中の反蒋介石の勢力が離合集散をくり返しながら反蒋戦争とも言われる反乱を各地で起こしていた。特に1930年4月の閻錫山との平原大戦と言われた内戦では北伐戦争よりも多い犠牲者が出た。さらに上海クーデタの後、農村に拠点を移した中国共産党も次第に勢力を回復し、井崗山などにソヴィエトを建設して農民を取り込み、国民政府との戦いである国共内戦が本格化していた。そのような中国の混乱をみて侵略のチャンスをうかがっていた日本の関東軍がついに1931年9月の柳条湖事件を口実に満州制圧に乗り出した。

4.国共内戦から第2次国共合作へ(1931~37年)

満州事変 1931年9月満州事変が起こったが、南京国民政府は共産党の殲滅を優先させ、日本軍の侵略に対する抵抗を二の次とする姿勢をとった。一方共産党は1931年に瑞金中華ソヴィエト共和国を樹立して独自政権を発足させたが、国民政府軍の攻勢を受けて瑞金を放棄して1934年、長征を開始し、その途中の遵義会議で毛沢東の指導権を確立させ、1935年には延安に入って新たな根拠とし、中国国民党に対しては抗日武装戦線の結成を呼びかけた。蔣介石はむしろ共産党との内戦、日本の侵略を理由に党内の独裁権力を強めていった。
通貨統一 共産党を延安に追いやった蔣介石は、中国の経済的統一に乗り出し、1935年11月通貨統一を断行して、銀の流通を禁止して法定紙幣(法幣)のみを流通させる管理通貨制度を導入した。紙幣発行権を持つ政府系銀行は浙江財閥である蔣介石の一族に握られており、この政策は蔣介石政権の強大化を目指すものであった。こうして蔣介石・国民政府は共産党との対立姿勢を強めていたが、日本軍が中国本土への侵攻を本格化しており、国共合作の復活を望む声が強くなっていった。
西安事件 1936年、日本軍によって満州を追われていた張学良が、共産党軍との戦いを督励にきた蔣介石を監禁して、国共合作を迫るという西安事件が起こり、それを機に次第に国共合作の気運が高まった。そのような中、翌1937年日中戦争が始まると、それに抵抗するため第2次国共合作が成立した。第2次国共合作は第1次と違い共産党員が国民党に加盟するというのではなく、二つの党はそれぞれ独自の党と軍として活動しながら、日本の侵略に対しては協力して戦うという形態をとった。

5.重慶国民政府(1937~46年8月)

日中戦争 1937年7月、日中戦争が勃発、中国は国民党と共産党が抗日民族統一戦線を結成して連携して戦った。日本軍が首都南京に迫ったため、12月1日に国民政府は首都を長江上流の奥地の重慶に移動させた(重慶国民政府)。日本軍は1937年12月に南京を攻略(その時南京虐殺事件が起こった)、南京に残った国民政府の機関も武漢に移ったが、翌年10月、武漢も攻略され、国民政府の中枢は重慶のみとなった。日本の近衛内閣は1938年1月、「国民政府を相手にせず」という声明を出し、重慶国民政府との交渉を打ち切るとともに、激しい重慶爆撃を行った。
 また中国国民党内で蔣介石と対立して重慶を脱出した汪兆銘を担いで、1940年3月に別に「南京国民政府」(中国では偽政府とされている)を作らせ交渉相手とした。しかし南京政府は国際的には承認されず、日本の中国分断策は失敗し、重慶国民政府は連合国の一員としてアメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けて抵抗を続けた。
第二次世界大戦 中国での戦争が長期化して行き詰まった日本は、1939年にヨーロッパで始まった第2次世界大戦でドイツが快進撃していることに応じて東南アジアのフランス、オランダ、イギリス植民地に進出する南進策を採るようになり、それを警戒したアメリカが石油などの対日経済封鎖に踏み切ったことを受け、1941年12月に太平洋戦争に突入、アメリカ・イギリスなどの戦争に突入した。中国は1942年1月の連合国共同宣言に加わり連合国の一員として戦うこととなった。アメリカはそれに対し、1942年10月に不平等条約の撤廃(治外法権、租界の廃止)を宣言、南京条約以来100年続いた不平等条約はここに終わりを告げた。
満州・台湾の回復 1943年11月、戦況が連合国有利となる状況の中で蔣介石はカイロ会談など連合国首脳会談に参加し、満州・台湾などを日本から返還させることを米英に認めさせ、カイロ宣言をふまえたポツダム宣言にも署名した。蔣介石の国民政府は国際連合の設立にも加わり、安全保障理事会の常任理事国になった。日本の敗北によって南京の汪兆銘政府は消滅した。

6.中華民国政府と国共内戦の再開(1946~49年)

 1945年8月に日本軍が敗北すると新中国(中華民国)の統治の主導権を握るのは、重慶の国民党政府か、延安の中国共産党か、あるいは両者が協力する連合政権となるのかが全土の民衆が固唾を呑んで見守る中、戦争に懲りている民衆、中国の安定を望むアメリカの意向などがあって、8月末から重慶において、蔣介石毛沢東との会談が行われた。両者の会談は難航の末、10月に合意に達し、双十協定を締結、内戦の回避と「政治協商会議」の開催で合意した。形の上で国民党と共産党及びその他の政党も参加して政治協商会議が開催され、国民党の権限は抑制されて挙国一致の態勢が成立したが、国民党・共産党の軍隊はそのままだったので衝突が始まり、翌年6月には再び激しい国共内戦に突入してしまった。
 1946年5月、国民政府は南京に帰り「南京国民政府」を唯一の政府とする中華民国を表明し、共産党などを排除して憲法制定国民会議を開催して中華民国憲法を制定、1912年3月11日に公布した。1948年には蔣介石を正式に中華民国総統に選出した(これ以後は「中華民国政府」と称する)。しかし、延安を拠点に確固たる勢力を民衆の中に築いていた中国共産党は、それに従わず、国共内戦は激化していった。

7.中華民国政府の台湾統治(1949年~)

 国共内戦は当初は国民党が優位であったが、共産党は解放した地域で地主制の廃止などの土地制度の改革を実施して農民支持を拡げ、1948年ごろには形勢を逆転して勝利を占め、1949年10月1日、「中華人民共和国」が樹立された。「中華民国政府」は1949年12月8日台湾に移動し、1950年から現在まで、台湾を統治している。
 蔣介石国民党政権の「中華民国」は国際連合の議席も継承した。この中国国民党による中華民国の台湾統治を行う台湾政府を「国民政府」と言う場合もある。国民党政権は本土出身者によって固められ、台湾人との対立の問題もあったが、東西冷戦のなか、アメリカの援助を受け、輸出産業を発展させていった。しかし、1971年にはアメリカが中華人民共和国を承認、「二つの中国」を認めない立場に変わったため、台湾の「中華民国」は国連の議席を失い、諸外国との外交関係も絶たれた。蔣介石は1975年に死去、78年に息子の蔣経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。1988年には初めて台湾出身者である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めた。

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