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近衛文麿内閣

日中戦争から太平洋戦争に至る期間に三度にわたり総理大臣を務め、日本の戦争を推進に大きな責任を持った貴族政治家。

 近衛文麿は五摂家の一つ近衛家の出身の貴族で、貴族院議員として活躍し、貴族院議長となった。開明的で若い貴族として国民的な人気も高く、政党政治の行き詰まった後の日本の天皇制を支える政治家として期待されていた。第一次内閣(1937.6~39.1)では盧溝橋事件に対応、当初不拡大方針をとったが軍部に押されて転換して日中戦争を拡大させ、国内では戦時体制を強化した。第二次世界大戦に対応する新体制運動を起こし、第二次内閣(1940.7~41.7)を組織、北部仏印進駐、日独伊三国同盟、日ソ中立条約などアメリカとの対決を強めた。第三次内閣(41.7~41.10)では日米交渉に行き詰まり総辞職し、次の東条内閣が太平洋戦争開戦に踏み切る。敗戦によりは戦争責任の追及を恐れて自殺した。

第一次近衛内閣

 1937年6月の就任直後の7月7日盧溝橋事件が勃発、近衛内閣は当初不拡大方針をとったが、戦争拡大を進める軍を追認し出兵を許可した。宣戦布告をしなかったので当初は北支事変と称し、上海に戦火が飛び火して第2次上海事変が起きると支那事変と改称したが、事実上の日中戦争の起点は1931年の満州事変から始まっていたと言える。
日中戦争と国家総動員法 近衛内閣は戦時体制を強化するため、国民精神総動員運動を起こし、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を国民に呼びかけた。また企画院を創設して戦時経済の統制に乗り出し、1938年国家総動員法を制定して、戦時統制経済への移行を図った。
三つの近衛声明 日中戦争は1937年12月、南京を陥落させたがその際に南京虐殺が起きて国際的な非難が起こり、その後も戦線は拡大の一方で当初のもくろみがはずれて長期化したため、日本は戦争目的の明確化に迫られた。そこで第1次近衛内閣は戦争目的の大義名分を明らかにするため、三次にわたる声明を出した。
  • 第一次近衛声明 1938年1月16日 「国民政府を相手とせず」と表明し、重慶の蔣介石政権との和平交渉を断念。戦争の長期化を容認した。
  • 第二次近衛声明 1938年11月3日 戦争の目的を「東亜新秩序の建設」である、と表明。国民政府との和平交渉再開を呼びかけた。
  • 第三次近衛声明 1938年12月 「善隣友好・共同防共・経済提携」の近衛三原則による和平の呼びかけ。重慶からハノイに脱出した汪兆銘に親日政府を樹立させる前提とした。
 1938(昭和13)年は、世界恐慌の再発とも言われる世界的な不況となり、ファシズム諸国以外でも軍備拡張と戦争による打開を策する状況となった。その中にあって日本は軍需景気による好況期をむかえていたが、長期化する日中戦争の収束は進まず、軍の内部と閣内にも北進論、南進論の対立などが表面化した。近衛首相は革新官僚を抱き込んだ新たな政治勢力の結集をもくろんだが失敗し、1939年1月に総辞職した。
外交・政局の混迷 次の平沼騏一郎内閣は精神的な国粋主義の色合いが強かったが、軍をコントロールすることはできず、1939年5月に満州国境で関東軍とソ連軍が衝突するノモンハン事件が勃発した。ソ連軍との衝突で大きな犠牲を出した軍部の中には、インドシナ・東南アジアに進出して援蔣ルートを遮断するとともに、石油、ゴム、鉄鉱石、ボーキサイトなどの資源の獲得を目指すという南進論が強まった。一方、日本が中国大陸における軍事行動を東南アジア方面に拡大しようとする動きはアメリカ・イギリスとの関係をさらに悪化させ、1939年7月にはアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきた。政府部内にはアメリカとの全面対決を避けたいという本音もあり、政局も不安定となった。
 そのような中、1939年8月独ソ不可侵条約が成立すると、平沼内閣は欧州の国際情勢は「複雑怪奇」として対応出来ずに総辞職、次に阿部信行内閣となった。ドイツはただちにポーランドに侵攻、1939年9月1日第二次世界大戦が勃発した。次の米内光政内閣も日中戦争の打開を模索したが、欧州でのドイツの快進撃に刺激された軍部が南進論を強め、慎重派の米内内閣を軍部大臣現役武官制によって倒し、近衛文麿が再び組閣することとなった。

第二次近衛内閣

 ヨーロッパ情勢の急転回で、ドイツ軍が今にもイギリス上陸を敢行することが想定された1940年7月、第二次近衛内閣が成立し、ただちに閣議で「基本国策要綱」を決定し、ドイツ・イタリアの「ヨーロッパ新秩序」に呼応する「大東亜新秩序」の建設と「新体制」と言われる戦時体制の整備が為されるとともに、大本営は「武力南進」の方針を固めた。この「大東亜新秩序」構想を実現するものとして「大東亜共栄圏」の建設が喧伝された。
日独伊三国同盟 この方針の下、1940年9月、日本軍はフランス領インドシナ北部に進駐、一方では外相松岡洋右の主張に沿って日独伊三国同盟を締結した。これはアメリカ合衆国を仮想敵国とするのであることが明白であったので、アメリカは硬化し、日本に対する輸出品の制限に乗り出し、援蔣ルートをビルマルートに変更してさらに中国支援を強化した。松岡外相はアメリカとの戦争を想定して、ソ連を日独伊三国同盟に加えようと工作したが、日本の思惑も狂い、ドイツのイギリス上陸が失敗してヨーロッパの戦線が再び東方に移ったためドイツとソ連の関係が悪化したことによって路線を転換し、単独で1941年4月日ソ中立条約を締結した。
大政翼賛会 国内では1940年10月、すべての政党は解党して近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が結成され、翼賛政治と言われるファシズム体制が成立した。結社の自由だけではなく、言論、出版、集会の自由が否定され、国民生活は厳しい戦時統制下に置かれることとなった。この年11月10日には紀元2600年の「奉祝行事」が行われ、国民の目はそちらに注がれた。
 1941年6月、独ソ戦が開始されたことで北進してドイツとともにソ連に当たるべしと言う北進論が再び台頭、日本の戦略は見直しが迫られた。同年7月2日の御前会議において、「帝国国策要綱」を決定、当面は武力南進を強化しつつ、対ソ戦も準備しておき、機会を見てソ連を攻撃するという、両面作戦をとることとした。関東軍は7月、ソ満国境で関東軍特別演習(関特演)を実施、ソ連に対して圧力を加えた。

第三次近衛内閣

 しかし、政府はソ連・アメリカ両面との戦争は不可能であるので、当面アメリカとの関係回復を目指すこととし、対米強硬派の松岡外相を外して改組し、1941年7月、第三次内閣を組閣、アメリカ国務長官ハルと駐米大使野村吉三郎を窓口とする日米交渉を開始した。
日米交渉に失敗 しかし、交渉が難航する間に、日本軍は7月に南部仏印進駐を実行し、東南アジアでの資源確保に動き始めた。さらに態度を硬化させたアメリカは8月に日本に対する石油輸出をストップ、日本国内にABCDラインによる日本包囲網の打破のための開戦を主張する声が強まった。1941年9月6日の御前会議で陸軍大臣東条英機が強硬に日米開戦を主張、「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉が10月上旬までに打開されない場合は、開戦を決意するとされた。近衛首相は日米交渉の継続を希望し、みずからフランクリン=ローズヴェルト大統領と折衝したがかなわず、ついに総辞職し、現役陸軍大将が首相となって東条英機内閣が成立した。
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