印刷 | 通常画面に戻る |

中ソ不可侵条約

1937年8月、中国国民政府の蔣介石とソ連のスターリンの間で締結された軍事同盟。日中戦争が勃発したことをうけ、中国(国民党政府)とソ連が日本に対する共同防衛を行うことを目的とした。

 1937年7月7日、北京郊外で中国軍と日本駐屯軍との間の偶発的な武力衝突から盧溝橋事件が起きた。これを機に日本軍は全面的な軍事行動を開始し、翌月の1937年8月13日には第2次上海事変へと戦渦が拡がり、日中両軍は全面的な事実上の戦争である日中戦争へと突入した。

蔣介石とスターリンの提携

 この事態を受け南京の中華民国国民政府蔣介石も抗戦を表明した。また1937年8月に蔣介石とソ連邦のスターリン政権は、この中ソ不可侵条約を締結し、日本に対する共同防衛にあたることを約し、互いに第三国との軍事同盟を禁じた。
 当時のソ連共産党は、中国共産党に対しコミンテルンを通じて指導する立場にあったので、毛沢東にも強く迫って9月には共産党と国民党の間で第2次国共合作を成立させた。これはすでに1935年7月コミンテルン第7回大会人民戦線戦術を転換していたためであり、中国共産党側ではすでに長征途上の遵義会議で毛沢東の主導権の下で、コミンテルンへの従属から脱し、独自路線に踏み出していたが、西安事件などもあって抗日民族統一戦線結成への輿論が強かったため、スターリンの提言を受け入れ、第2次国共合作に踏み切った。
 スターリンは中国共産党単独では日本と戦えないと判断、むしろ軍事的には国民党に期待をかけていたのだった。日本軍の進撃は上海の防衛戦を越え、南京に迫る中、蔣介石の中国政府は1937年11月に重慶に移って抵抗を続けたが、12月には南京が陥落した。それでもソ連は国民政府に対する武器の援助を続けた。

日本とソ連の軍事衝突

 この段階では、日本軍は依然としてソ連を最大の仮想敵国としており、満州国とソ連・モンゴルの国境は緊張が増していた。 日本軍に北進させないためにも中国国民党軍に期待していた。その中で、1938年7月29日には南東部の豆満江河口付近で、日本軍とソ連軍の最初の軍事衝突である張鼓峰事件が起こった。戦闘ではソ連軍が機械化部隊や飛行機を動員して優位に進め、日本も全面戦争に転化することは避けたかったので間もなく講和したが、さらに1939年5月には満州国西部のモンゴル共和国との国境でノモンハン事件が起こり、日ソ両軍の本格的な戦闘となった。この時も装備に優れたソ連軍によって日本軍が苦戦したが、ソ連軍の損害も大きく、戦闘は長期化した。
独ソ不可侵条約 その一方、英仏が1938年のミュンヘン会談でドイツに対する融和政策をとったのを見て不信感を強めたスターリンは、すでにナチス=ドイツのヒトラーとの交渉を進めており、1939年8月23日には独ソ不可侵条約を締結、1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、9月15日にノモンハン戦争の講和を成立させた後、9月17日にソ連軍のポーランド侵攻を実行した。

日ソ中立条約

 しかし、第二次世界大戦は1941年4月ごろから大きく情勢が転換、ドイツ軍のバルカン侵出が強まって独ソ戦の危機が強まると、日本との関係を見直す必要が生じ、また日本側にもヨーロッパでのドイツの進撃によってフランス・オランダが後退したことを見て、南進に舵を転じ、こうして日ソの利害が一致し、1941年4月13日に日ソ中立条約を締結する。このとき、日ソが中立条約にとどまり軍事同盟に至らなかったのは、ソ連が中国国民党政府と結んでいたこの中ソ不可侵条約がまだ生きていたからであった。しかし、日ソ中立条約締結に合わせて発表された共同声明で、ソ連と日本がそれぞれ満州国とモンゴル人民共和国の領土保全と不可侵を尊重するとしたことは中国世論に強い反発を生んだ。
 なお、スターリンの国民党政府に期待するという対中国戦略は、日中戦争終結の時期になっても基本的に変わらなかった。1945年8月14日には国民党政府との間で中ソ友好同盟条約を締結している。
印 刷
印刷画面へ