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中ソ友好同盟条約

1945年8月、ソ連のスターリンと中国の国民政府(重慶)蔣介石の間で締結された条約。日本との戦争での相互に援助と、中国の満州領有・ソ連の大連・旅順と中東鉄道などに対する権益を相互に確認した。

 1945年8月14日(日本の敗戦の前日)にソ連のスターリン中華民国(中国)の国民政府(重慶)の蔣介石の間で締結された条約。ソ連は中華民国国民政府を承認し、中国はソ連と協力して日本と戦うこと、日本の侵略戦争に対して相互に援助すること、などとともに、中国の東三省(満州)の領有とソ連の旅順・大連と中東鉄道・南満州鉄道に対する権益の継承を確認し、モンゴル人民共和国の存在と国境線の画定を交換公文で承認した。

ヤルタ協定の密約

 それ以前の米英ソ三国首脳のヤルタ会談で1945年2月11日ヤルタ協定を締結、その中の秘密条項でソ連はイギリス・アメリカから、旅順租借権の回復・大連港の使用、中東鉄道・南満州鉄道の経営権への参加などの優越的地位の保障という同一の内容が認められていた。蔣介石はヤルタ会談には招かれていなかったので、中国を抜きにして米英ソ三国が中国の権益について秘密条項を結んだことに激怒したが、スターリンが中国共産党でなく、国民党政府を中国の政権と認めたことは受け入れざるを得なかった。また、この条約の締結にはソ連と重慶政府の対立回避を願うアメリカの調停があった。ソ連のスターリンはこの段階ではまだ中国共産党が中国の勝者となるとは考えておらず、かつてのソ連の指示に従って国共合作(第1次)を実現した孫文の後継者としての蔣介石を依然として信用し、重慶政府と交渉相手と考えていた。このような事情で、スターリンと蔣介石は中ソ友好同盟条約を締結したのだった。<野村浩一『蔣介石と毛沢東』現代アジアの肖像 1997 岩波書店 p.360,366 などによる>

スターリンと蔣介石の握手

 日中戦争勝利後の中国の主導権を巡り、共産党と国民党の対立が激しくなっていったが、スターリンは蔣介石と毛沢東の握手を強く進めながら、国共内戦となった場合は中国共産党が勝利するとはまったく考えていなかった。つまり国民党が勝利すると予測し、国民党を支援する代わりに東北地方(旧満州)で獲得した権益(中東鉄道・南満州鉄道の経営権、旅順・大連の使用権など)を確保しようとしたのだった。
 ソ連が蔣介石とこの条約を締結したことに対して毛沢東は当然強く反発したが、第二次世界大戦がようやく終結し、中国国内にも平和を望む声が強かったので、スターリンの要請に応え、蔣介石との重慶での会談に応じることにした。それによって双十協定が成立し、両者は協力して新国家建設に向かうことになった。

第2次国共内戦

 しかし、国共内戦で国民党軍が勝つであろうというスターリンの見通しは誤っていた。1946年6月第2次国共内戦が始まると、次第に共産党側の優勢が明らかになっていった。特に東北地方では人民解放軍が国民政府軍を次々と包囲、殲滅していくと、ソ連は態度を変え、日本軍から没収した武器を共産党側に提供するようになったため、今度は国民党側が反発することとなった。

中ソ友好同盟条約の破棄

 ついに1949年に中国共産党の勝利に終わり、10月、中華人民共和国が成立すると、ソ連は中ソ友好同盟を破棄し、1950年2月、中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。
 その内容は、中ソ友好同盟条約で国民政府と取り交わした内容とほとんど同じで、大連・旅順、中清鉄道の権益などのソ連の権益は継承された。この条約は中ソ関係が悪化する1959年に事実上効力を失うまで存続した。
注意 中ソ友好同盟条約と中ソ友好同盟相互援助条約は別もの この二つの条約はそれぞれ「中ソ」となっているが、前者の中は中華民国(中国国民党の国民政府)、後者の中は中華人民共和国(中国共産党の北京政府)であることに注意しよう。中国の政治主体がまったく異なってしまったわけだ。二つの似たような条約が締結されたことは、ソ連の対中国外交が、蔣介石の国民党と毛沢東の共産党の両勢力を常に天秤にかけてどちらと結んだら有利になるかを測っていたことが分かる。
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書籍案内

野村浩一
『蔣介石と毛沢東』
現代アジアの肖像
1997 岩波書店