中ソ友好同盟相互援助条約
1950年、中華人民共和国とソ連が締結した、日本を仮想敵国とした軍事同盟。しかし、50年代後半から中ソ対立が始まり、事実上同盟関係は解消されたが、形式的には79年、中国が一方的に継続拒否を通告、80年に破棄された。
1950年2月に中華人民共和国とソ連邦の間で締結された軍事同盟。建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」をうかがうという情勢の緊迫があり、ソ連も1947年3月のトルーマン=ドクトリンによって東西冷戦が明確になり、アメリカとの全面的な武力対立に備えなければならないという事情があった。1949年10月の中華人民共和国建国の直後の1949年12月、毛沢東は、ソ連のスターリンの生誕70年を祝うためという口実でモスクワに飛び、2ヶ月も滞在してスターリンと会談を重ね、翌1950年2月17日に中ソ友好同盟相互援助条約の締結に漕ぎ着けた。
しかし、中ソ友好同盟相互援助条約で中国政府が認めた東北地方に於けるソ連の権益――中清鉄道(旧東清鉄道)の経営権、旅順(軍港)の駐兵権――の返還は対日講和条約の成立までにという約束で延ばされた。実際には中清鉄道の返還は1952年末に、旅順の返還は1955年になった。
これによって成立した中ソの同盟関係は、東西冷戦が深刻化するなか、社会主義国である二国の軍事同盟として機能し、この条約の下で中国は1950年6月に勃発した朝鮮戦争に参戦し、アメリカ軍と対決することになる。
その後、中ソ対立は深刻度を加え、60年代後半からの文化大革命の時期には69年の珍宝島事件など中ソ国境紛争が頻発し、両国関係は極度に悪化した。
1976年に毛沢東が死去し、文化革命も沈静化が始まったが、1979年に中越戦争が起こると、中国(華国鋒政権)はソ連がベトナムを支援したことに反発、さらに中ソ友好同盟相互援助条約が定められた30年間の期間が終了したことから、その延長拒否を通告、それによって1980年に同条約は破棄された。
しかしこのとき、中国では天安門事件(第2次)の最中であり、ゴルバチョフ帰国後にソ連は東欧革命に直面し、ソ連自身が終焉を迎える。 → 中ソ関係の正常化
日本を仮想敵国とした軍事同盟
中ソ同盟は「日本軍国主義とその同盟者」を仮想敵国とし、アメリカが日本の軍事基地から中国を攻撃することを想定して共同防衛にあたること、3億ドルの借款協定などが内容であった。これによってソ連が蔣介石の国民政府(中国)と1945年8月14日(日本の敗戦の前日)に締結していた中ソ友好同盟条約は破棄された。しかし、中ソ友好同盟相互援助条約で中国政府が認めた東北地方に於けるソ連の権益――中清鉄道(旧東清鉄道)の経営権、旅順(軍港)の駐兵権――の返還は対日講和条約の成立までにという約束で延ばされた。実際には中清鉄道の返還は1952年末に、旅順の返還は1955年になった。
これによって成立した中ソの同盟関係は、東西冷戦が深刻化するなか、社会主義国である二国の軍事同盟として機能し、この条約の下で中国は1950年6月に勃発した朝鮮戦争に参戦し、アメリカ軍と対決することになる。
中ソ対立と同盟関係の解消
しかし、1950年代後半から中ソ対立が始まったために次第に関係が悪化、1959年にはソ連が中ソ技術協定破棄を中国に通告し、同盟関係は事実上解消された。その後、中ソ対立は深刻度を加え、60年代後半からの文化大革命の時期には69年の珍宝島事件など中ソ国境紛争が頻発し、両国関係は極度に悪化した。
1976年に毛沢東が死去し、文化革命も沈静化が始まったが、1979年に中越戦争が起こると、中国(華国鋒政権)はソ連がベトナムを支援したことに反発、さらに中ソ友好同盟相互援助条約が定められた30年間の期間が終了したことから、その延長拒否を通告、それによって1980年に同条約は破棄された。
中ソ関係の正常化
しかし、中国ではそのころから鄧小平の改革開放路線が始まり、ソ連においても1985年にゴルバチョフ政権のペレストロイカが動き始め、中ソ関係にも改善の気運が高まり、1989年5月にゴルバチョフが中国を訪問して中ソ関係の正常化が行われた。しかしこのとき、中国では天安門事件(第2次)の最中であり、ゴルバチョフ帰国後にソ連は東欧革命に直面し、ソ連自身が終焉を迎える。 → 中ソ関係の正常化