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チェコスロヴァキアのクーデタ

1948年、チェコスロヴァキア共和国で、マーシャル=プラン受け入れ拒否を主張した共産党が、クーデタで政権を奪取し、共産党政権を樹立し社会主義共和国とし。イギリスのチャーチルはヨーロッパへの共産主義の浸透を恐れ、西ヨーロッパの結束を強化したので、東西冷戦が深刻化した。

 1948年2月にチェコスロヴァキアでマーシャル=プラン拒否を掲げる共産党が権力を奪った一種のクーデタ。二月事件とも言う。東側のスターリン体制が強化されたと受けとった西側は西ヨーロッパ連合を形成し、東西冷戦が明確になった。

マーシャル=プラン受け入れ問題

 第二次世界大戦後、チェコスロヴァキア共和国では大統領ベネシュの下で議会制民主主義が守られ、共産党も含む連立内閣が成立していた。ところが、1947年6月にアメリカがマーシャル=プランの援助計画を発表すると、その受け入れを巡ってチェコスロヴァキア政府とソ連、チェコスロヴァキア連立内閣の内部に亀裂が生じた。
 チェコスロヴァキアのベネシュ政権は7月にその受入を決定した。しかし、東欧諸国に強い影響力を及ぼそうとするソ連が圧力をかけると、ベネシュはやむなくソ連の「助言」によってそれを取り消した。1948年2月、受け入れ撤回に対する批判が強まると、共産党は取り締まりを強化し内務省の人事に介入した。それにたいして共産党以外の閣僚が辞表を提出。共産党は大規模な街頭デモを組織して圧力をかけ、大統領ベネシュに辞表の受理を迫った。内戦を恐れたベネシュは辞表を受理、共産党単独政権となった。5月には共産党主導で新憲法が制定されチェコスロヴァキア社会主義共和国が成立したが、ベネシュは署名を拒んで辞任し、共産党のゴッドワルトが大統領となった。共産党政権を成立させた一種のクーデタが成功したといえる。
 イギリスのチャーチルはこれに衝撃を受け、共産主義勢力の西側への浸透を防止する目的で、西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を締結し、それはさらに西ヨーロッパ連合へと改組され、集団防衛体制となっていく。チェコスロヴァキア情勢も東西冷戦の先鋭な対立点の一つであった。

冷戦深刻化の一因

 1948年の共産党によるチェコスロヴァキア・クーデタの成功は、画一的なスターリン体制東ヨーロッパ諸国に導入される契機となった。また西側でもチェコスロヴァキアの共産化に大きな衝撃を受け、西ヨーロッパ連合条約による西欧同盟を結成し集団的自衛体制を作り上げた。 → チェコ事件

Episode 疑惑の外相自殺 第三次窓外投げ捨て事件?

 1948年のチェコスロヴァキア=クーデター(二月事件)の時、外務大臣マサリクはプラハの執務室の窓の外で死体となって発見された。当初、自殺とされたがその真相は不明のままに終わった。後に、1968年のチェコ事件の時、マサリクの死にソ連の秘密警察の関与を示唆する記事が新聞に掲載されたが、「プラハの春」の自由化運動も弾圧され、結局はうやむやに終わった。このマサリクは、チェコスロヴァキア建国の父と言われたマサリクの子。
 ところでチェコの世界史的出来事にはなぜか「窓」がからむ。1419年のフス戦争の発端はフス派の信者が同志の釈放を要求してプラハ市役所に押しかけ、認められなかったので役人を二階の窓から投げ捨てたことだった。さらに、三十年戦争の発端となった1618年のベーメンの反乱は、プロテスタントがプラハ城に押しかけ、皇帝側の役人をやはり窓の外へほうり投げたことから始まった。
 この外相マサリクが窓の外で死んでいた事件は、他殺説ではソ連の秘密警察に窓の外に投げ出されたのだとして、「第三の窓外投擲事件」といっている人もいるという。プラハでは窓に近づかない方が良いかもしれない。
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