印刷 | 通常画面に戻る |

ベーメンの反乱

1618年に起こったベーメン(ボヘミア)の新教徒の神聖ローマ皇帝に対する反乱。三十年戦争の発端となった。プロテスタントは1620年のビーラー=ホラの戦いで敗れ、チェコではほぼ消滅した。

 ベーメンは現在のチェコ西部でボヘミアとも表記(ベーメンはドイツ語)。10世紀以来、神聖ローマ帝国を構成するベーメン王国として存続していた。15世紀にはカトリック教会を批判したフスが現れ、フス派が形成されたが異端として弾圧されたため、フス戦争が起こった。この戦争でフス派急進派は敗れたが、穏健派は信仰の自由を認められ、存続した。1517年にドイツで宗教改革が始まると、フス派(穏健派)の信徒はプロテスタントに合流し、カトリック教会に対する反発を強めていった。

オーストリア=ハプスブルク家のベーメン支配

 1526年、オスマン帝国のスレイマン1世がハンガリーに侵攻し、モハーチの戦いでベーメン・ハンガリー王ラヨシュ2世が戦死すると、その王位をハプスブルク家のフェルディナント(カール5世の弟)が継承した。ドイツの宗教対立はフェルディナントの時、ようやく1555年アウクスブルクの和議が成立し、新教の信仰が公認されるとともに「領主の宗教、その地で行われる」という原則となった。彼は翌1556年に神聖ローマ皇帝フェルディナント1世となってオーストリア=ハプスブルク家が成立したが、その後継の皇帝はいずれも新教徒を容認し、対立を避けていた。特にルドルフ2世(在位1576~1612)はベーメン王も兼ねて宮廷をプラハに移し、寛容な宗教政策をとった。

プラハの衝突

プラハ投げ捨て事件
1618年、プラハ城でプロテスタントが皇帝の代官を窓から投げ捨てる。
 ところが1617年にあらたにベーメン王となったハプスブルク家のフェルディナントは、イエズス会修道士の教育を受け、熱心なカトリック信者であったため、ベーメンに対するカトリックの強制を強化し、プロテスタント弾圧を開始した。同時にベーメン王国ではチェコ語が公用語とされていたのに対し、ドイツ人官吏を送り込み、ドイツ語化をはかった。それらのハプルブルク家の信仰の自由と民族性を無視した措置にベーメンのチェコ人は強く反発した。1618年、数名の新教徒の代表がプラハで代官に抗議し、代官を役所の窓から投げ捨てるという挙に出た。

Episode 二度目のプラハの窓外投げ出し事件

 チェコ北部のプロテスタント教会が閉鎖されたことに抗議するプロテスタント貴族の代表は、1618年5月23日、プラハ城に押しかけ、行政局で政務を執っていた高官ヴィーレム=スラヴィタとヤロスラフ=マルティニッツ、それに書記官一名を2階の窓から放り投げた。地上20mの窓から落とされた三人は、城の濠の中のゴミための上に落下し、命を取りとめた。プロテスタントたちは「皇帝の犬ども!」ととののしりながら、窓から小銃の射撃を浴びせたが、三人は軽いけがを負っただけでそのまま逃げ去った。これが三十年戦争の発端となった「役人投げ捨て事件」だった。
 実は「窓外放出」事件は二度目だった。最初はフス戦争の発端となったできごとだった。カトリック教会を激しく批判したフスが異端とされて火刑になったことに怒ったフス派の人々が各地で信仰の自由を求めて立ち上がると、ベーメン王ヴァーツラフ4世は厳しい弾圧の挙に出た。怒ったフス派の信徒が1419年7月、プラハの市役所に押しかけ、カトリックの市長と参事たちをつかまえて窓から放り出し、ヴァーツラフ4世はその衝撃で死亡してしまった。次いで国王となったジギスムントはカトリック諸国にフス派撲滅の十字軍派遣を要請、フス戦争となる。ほぼ200年の時を経て、プラハで同じような事件が起きたわけである。いずれも反カトリック教会とチェコ人の民族的自覚からの行動だったと言える。 → チェコスロヴァキアのクーデター

ビーラー=ホラの戦い

 ベーメンのプロテスタント=新教徒は独自の政府を作り、信仰の自由や貴族・市民の諸身分の権利を定めた国制プランを作成、モラヴィアやハンガリーにも呼びかけ、1619年7月にはいくつかの領邦から成る連合国家(ボヘミア連合=ユニオン)を結成し、フェルディナントを国王と認めず、カルヴァン派のファルツ選帝侯フリードリヒ(5世)をあたらに国王に選んだ。これに対して神聖ローマ帝国ではフェルディナント2世が皇帝に即位、カトリック諸侯の同盟(リガ)を結成し、両派の軍事衝突は避けられない情勢となった。
 翌1620年、フェルディナント2世はスペインからの援助を受けて新教徒軍を攻撃し、両軍はプラハ近郊の丘ビーラー=ホラで衝突したが、プロテスタント連合軍はあっけなく敗れ、フリードリヒは逃亡してオランダに亡命、翌年6月21日、プラハの旧市街広場で反乱首謀者として捕らえられた27名が処刑され、チェコにおけるプロテスタントの反乱は終わった。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.154>
 現在のプラハの旧市街広場には、白い石をモザイク状に埋めて十字型にした印が27ヶ所残されている。これはビーラー=ホラの戦いで敗れて捕らえられ、処刑された27人のプロテスタント指導者の数を示している。<河野純一『ハプスブルク三都物語』2009 中公新書 p.96>

チェコのプロテスタントの終焉

 1623年までに新教側はほぼ鎮圧された。プロテスタント諸侯は処刑されるか亡命するかでいなくなり、その所領はフェルディナントの配下の貴族や外国人の傭兵隊長らに与えられた。こうしてチェコにおけるプロテスタント派・フス派ほぼ姿を消し、カトリック教会に支えられた強固なハプスブルク家支配が成立した。現在もチェコの国民の40%はカトリック信者であり、プロテスタントは少数派に留まっている。また、長くフス派の拠点であったプラハ大学もプロテスタントは排除され、イエズス会が管理することとなった。
 しかし、ドイツでは1625年にデンマーク王クリスチャン4世が新教徒支援を掲げて進軍し、新旧両派の対立はついに国際紛争化、宗教戦争でもある三十年戦争に拡大し、1648年まで続くこととなった。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

薩摩秀登
『物語チェコの歴史』
2006 中公新書

河野純一
『ハプスブルク三都物語
ウィーン、プラハ、ブダペスト』
2009 中公新書