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パレスチナ難民

1948年のイスラエル建国・パレスチナ戦争以来、イスラエルの領土拡張によって居住地パレスチナを追われたアラブ人。現在も多くが帰還を望んでいるが実現していない。難民帰還権問題はオスロ合意以来のイスラエル・パレスチナ間の和平交渉で最大の難問となっている。

 1947年11月29日に国際連合でパレスチナ分割案が決議され、翌年イスラエルが建国、パレスチナ戦争が始まった1948年の直前の資料では、パレスチナに住むアラブ系住民の人口は約130万人、ユダヤ人は66万人で、パレスチナの土地の5~6%を所有していたにすぎなかった。
 パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発によって流出したアラブ難民は、1949年の国連報告によると70~90万人を数えている。イスラエル国内にとどまったアラブ人もおり、彼らはイスラエル市民権が与えられ、約70万人(イスラエル総人口の15%)を数えていたが、さらに現在では400万人にのぼっている。
 パレスチナを離れた難民は、隣国のヨルダンなどに逃れ、難民生活を強いられている。このパレスチナ難民から、パレスチナの奪回を実力で勝ち取ろうというパレスチナ解放機構(PLO)が結成され、アラファトがその指導者として台頭してくる。<藤村信『中東現代史』p.24 などによる> → パレスチナ問題

国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)

 国際連合総会は、第一次中東戦争によって、多数のパレスチナ人が難民となったことを受け、1949年12月8日の総会決議によって、難民救済事業機関を設置することを決めた。この決議はアラブ諸国、イスラエルも支持し、反対なく(東側諸国および南アフリカ共和国は棄権)可決された。1950年5月から活動を開始したが、当初の予定を超え、パレスチナ問題がその後も深刻の度合いを増して収束に至っていないため、活動期限が更新され続けている。
 国連パレスチナ難民救済事業機関 UNRWA(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East)は現在も活動を継続している国連事業機関の一つであり、本部はガザとヨルダンのアンマンに置かれ、職員29000人を数える国連最大の組織である(そのうちの99%はパレスチナ人)。
 UNRWAでは、パレスチナ難民とは1946年6月1日から1948年5月15日の間にパレスチナに住んでおり、その家と生計を失った者とその子孫であることと定義されている。1948年12月11日の国連総会決議194では帰還権や補償を受けるには適格性が求められているが、UNRWAの規定はそれより緩やかであるので、全てのパレスチナ難民はUNRWAに登録され、支援が必要なものはサービス利用者となる。2013年1月1日時点でUNRWAの登録難民は約500万人である。<Wikipedia による> → 国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA)ホームページ(日本語)

オスロ合意での未解決問題

 1948年以来、4度にわたる中東戦争が続き、パレスチナ問題(中東問題)は解決できないまま、パレスチナ難民によるテロとイスラエル側による報復行為の繰り返しとなり、多くの犠牲が出た。ようやく1993年オスロ合意が成立、両者による和平交渉が始まり、パレスチナにおけるパレスチナ人の自治政府は暫定的に認められたが、大きな問題が浮上した。ここで合意されたパレスチナとは、ヨルダン川西岸とガザ地区に限定され、その後の交渉で対象となる難民とはその地に逃れてきた人々を指すことになったため、ヨルダン、レバノン、シリア、エジプトなど周辺のアラブ諸国にも多数存在する「パレスチナ難民」をどうするのか、という問題であった。彼らも同じように故郷である現在のイスラエルが支配している土地に戻りたいと願っており、その権利はある。
 しかし、オスロ合意は、このパレスチナ難民の帰還する権利を保障しその希望をどう実現するか、と言うことを話し合うことは難問の一つとなった。それはユダヤ人の民族国家の原則を崩したくないイスラエルにとっては譲れないことであった。PLOも、本来はパレスチナ難民を「解放」するのが目的であったが、現実にはヨルダン川西岸とガザにおいてユダヤ人入植者に土地を奪われているなかでその地のパレスチナ人を守ることで精一杯だった。こうしてパレスチナ難民帰還権問題はオスロ合意後の交渉で「最終的地位協定」といわれて競技は後回しとされた。
 ようやく2000年7月、、アメリカのクリントン大統領の仲介で、キャンプ・デーヴィッドにおいてイスラエルのバラク首相とPLOアラファト議長の会談が行われ「最終的地位協定」の協議に入ったが、たちまち決裂してしまった。この決裂は、最終的にオスロ合意が破綻したことを意味し、それ以降、和平交渉は棚上げとなり、双方は再び激しく相手を非難するようになった。その中で2000年9月28日第2次インティファーダ(民衆蜂起)が始まり、流血の闘争が繰り返されることになった。イスラエルは入植地とパレスチナ人の居住区の間に壁を作り、交通を遮断した。パレスチナ側ではPLOの和平路線に反対するハマスが台頭し、激しい自爆テロを繰り返した。
 ガザ地区は表面的にはイスラエル軍と入植者が撤退したが、イスラエルは境界に壁を構築して経済封鎖を行ったため、その地域のパレスチナ難民の生活は極度に悪くなり、「天井のない牢獄」と言われるようになった。2023年10月のハマスによるイスラエルに対するロケット弾による攻撃と、それに対するイスラエル軍の空爆と地上侵攻は、イスラエルによるガザの完全制圧へと向かう勢いを見せており、パレスチナ難民の被害は益々大きくなっていく様相となっている。<2023/11/18記>

NewS UNRWA職員、100人超が死亡

 国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は10日、パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスが10月7日にイスラエルへの攻撃を始めて以来、ガザで100人を超える国連職員が死亡したと発表した。1カ月超の短期間で国連職員が犠牲となった人数としては過去最悪となった。人口密集地のガザでのハマスに対するイスラエルの空爆と地上侵攻が続く中、UNRWAはロイターに対して職員はパンを買うために行列に並んでいる際に死亡したり、自宅で家族と共に命を落としたりしたと説明した。・・・REUTERS 2023/11/11
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書籍案内

エドワード・W・サイード
/島弘之訳
『パレスチナとは何か』
2005 岩波現代文庫
原書は1986年刊

パレスチナ生まれの現代アメリカの思想家が、パレスチナ問題を語る。写真豊富。

清田明宏
『天井のない監獄 ガザの声を聴け!』
2019 集英社新書

UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)で医療に携わった日本人医師の現地報告。

錦田愛子
『ディアスポラのパレスチナ人
「故郷(ワタン)」とナショナル・アイデンティティ』
2010 有信堂