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パレスチナ分割案/パレスチナ分割決議

イギリスのパレスチナ委任統治放棄により、国際連合調査団の報告に基づき、1947年11月、国連総会で決議されたパレスチナをアラブ人とユダヤ人の居住地にしたがって分割する決議。ユダヤ人は受諾してイスラエルが建国されることになったが、アラブ人にとっては不利な分割だったので反発し、現地での衝突が起こった。翌48年、イスラエルが建国宣言し、パレスチナ戦争が勃発する。以後、4次にわたる中東戦争と現在に至るパレスチナ問題へと続いていく。

 第一次世界大戦後の1920年以来、イギリスの委任統治とされていたパレスチナにはシオニズムの高まり、さらに30年代以降はナチス=ドイツによるユダヤ人迫害から逃れようとしたことで、ヨーロッパからのユダヤ人移住が増えていった。そのため先住のパレスチナ人(アラブ人)との間の激しい衝突が相次ぎ、時にはイギリスの機関もテロの標的となっていた。このパレスチナ問題に手を焼いたイギリスは第二次世界大戦後、アトリー労働党内閣がついにパレスチナ放棄を決意し、成立したばかりの国際連合に「丸投げ」することとした。国連がパレスチナに派遣した調査団は、意見が分かれたが、パレスチナをアラブ人居住区とパレスチナ人居住区を分離させる案が1947年11月29日に総会に提案され、可決された。

イギリス委任統治下のパレスチナ

もう一つの分割案 ピール案 パレスチナを分割するという考え方はすでに1936年にアラブの反乱に手を焼いていたイギリスが派遣したピール卿を団長とする王立調査団の報告書「ピール委員会の勧告」(ピール案)にみられていた。これによってイギリスが委任統治終了後にパレスチナに二つの国家を作るという構想を持っていたことがわかる。だだし、ピール案では、ユダヤ側は北西部に約20%、5000平方キロのみが割り振られ、エルサレムやベツレヘムは委任統治が継続されるというものだったので、ユダヤ側の反発が強く、結局は受け入れられなかった。
バルフォア宣言を事実上破棄 パレスチナはイギリス委任統治として続いていたが、第二次世界大戦の前の国際情勢の変化によって、イギリスはアラブ人との関係をよくするため、かつてのバルフォア宣言(ユダヤ人にユダヤ国家の建設を認めた宣言)を百八十度転換させる必要が出てきた。1939年にナチス=ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、その直前にイギリスはパレスチナ白書を出して、対ドイツ・イタリア戦争に備えてバルフォア宣言を事実上破棄することとなった。それによってアラブ諸国との関係を改善しようとしてイギリスは1939年2~3月、ロンドン円卓会議を開催した。この会議にはパレスチナ・アラブ代表とユダヤ・シオニスト代表と並んで、エジプト・イラク・サウジアラビアなどのアラブ諸国代表も招聘してパレスチナ問題の解決を協議した。この枠組みは後のパレスチナ問題の解決を模索する場となったことで重要である。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社現代新書 p.198>
 第二次世界大戦ではイギリス軍はパレスチナに軍をおいたまま戦わなければならなかった。中東のアラブ人は長くイギリス・フランスに支配されていたので、戦争でドイツに協力的であり、一方のユダヤ人はナチス=ドイツに対する強い敵対心を持っているのでイギリスに協力した。後のイスラエル軍の基礎はこのときイギリス軍に協力することで作られた。

国際連合の調停

 国際連合1946年1月10日に第1回総会(加盟国51カ国)を開催し、国際的紛争の平和的解決をめざすとともに、軍事的衝突に対しては安全保障理事会が対応することとなっていた。そのころ、独立直後のインド・パキスタン間のカシミール帰属問題、このパレスチナ紛争などの解決が急がれていた。カシミール紛争は1947年10月にインド=パキスタン戦争(第1次)の勃発となると国際連合が仲裁して停戦を実現し、その役割を果たした。パレスチナ紛争では、4月に第1回の国連特別総会が開催され、「国連パレスチナ特別調査委員会」を現地に派遣することとなった。4ヶ月の現地調査を経て、11月に報告書を提出した。調査団の意見は分かれたが、結局、「ユダヤ人とパレスチナ人の居住地を分割する」、つまりパレスチナを両民族の住む地域に線引きをする案が国連総会に付託されることになった。
 国連分割案では1936年のピール案では約20%に過ぎなかったユダヤ人領が、約57%に増えたので、ユダヤ人にとっては満足の得られるものであった。しかしユダヤ人にとっての聖地であるイェルサレムが国際連合管理下に置かれることは民族主義的なユダヤ人には強い不満が残った。
 パレスチナのアラブ人にはとうてい受け入れられないものであった。ピール案ではユダヤ人に与えるのはガリラヤ地方と海岸のテルアヴィブ、ヤッフォのみであったのに、国連分割案ではガリラヤ地方の一部をパレスチナ人に与える代わりに、南部三角地帯の大部分とガザ地区を除く海岸部がユダヤ人に与えられたので、強い憤りをもった。

国連、ユダヤ人とパレスチナ人の二国家建国を勧告

 国際連合総会(加盟国57)は1947年11月29日に「パレスチナ分割案」を審議、1国1票の多数決で賛成多数となり、決議された。それはパレスチナを分割して、ユダヤ人とパレスチナ人の二つの国家を建設し、イェルサレムは国際管理下におく、というものであった。採決は賛成33、反対13、棄権10、欠席1で可決された。賛成はアメリカ・ソ連の2大国と、ヨーロッパ諸国、南米諸国の一部、英連邦諸国、反対したのはアラブ諸国(エジプト、ヨルダン、イラク、シリア、レバノン、サウジアラビア)とイスラーム国家(アフガニスタン、イラン、パキスタン、トルコ)、キューバ、ギリシア、インドであった。棄権は当事者であったイギリスと、他に中国、中南米の一部)、欠席はタイであった。
POINT 国連分割案の問題点 1947年の国連パレスチナ分割案は、全人口の約3分の1のユダヤ人に、土地の約57%を与えたもので、ユダヤ人にとって有利なものであった。当時、パレスチナの総人口197万人の中のユダヤ人はわずか60万人であり、多くはイェルサレムとその周辺に居住していた。
(引用)エルサレムではユダヤ人もアラブ人もほぼ全員が雑音の多い短波放送の(国連総会の)実況に耳を傾け、国名のそばに○×△をつけた。賛成に○をつけるか、×をつけるかは属する民族による。可決が伝えられた瞬間、ユダヤ人たちは外に飛び出し、自然に踊りの輪ができた。<笈川博一『物語イェルサレムの歴史ー旧約聖書からパレスチナ和平まで』2010 中公新書 p.194>

Episode レークサクセスの奇蹟

 当初、国連分割案は、常識的にあまりに不公平とみられ、可決されないだろう、と思われた。しかし国際連合総会の採決の際、前日まで反対を表明していた12の中小国が当日賛成に回り、「レークサクセスの奇蹟」と言われた(当時国連本部はニューヨーク郊外のレークサクセスにおかれていた)。この裏には、ニューヨークを拠点としたシオニストグループ(シオニズムの信奉者たち。その中心人物がベングリオン)のロビー活動があったといわれている。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.19 などによる>
 また各国の賛否の背景には次のような事情があったことが考えられる。
  • アメリカがイスラエル支持に踏み切ったのは、トルーマン大統領が「イスラエルは票になるが、アラブは票にならない」と言ったといわれるとおり、大統領選挙でアメリカ国内のユダヤ人票を期待していたのだ。
  • アメリカはまた、外交上ではギリシアやトルコの左翼反政府運動を抑えるために、地中海に面したパレスチナに親米国家を作っておくことが必要である、という思惑もあった。
  • ソ連は地中海方面への勢力拡大の上で、ユダヤ人国家を味方につけておくことが必要だった。
  • シオニストのロビイストが、ヨーロッパの諸国には大戦中のユダヤ人虐殺への罪の意識をに訴えた。ラテンアメリカ諸国も当初は分割案に反対だったが、シオニストの強い説得を受けたたこと、冷戦期の米ソへの同調圧力があったこと。
<月本昭男編『聖地エルサレム』2009 地図とあらすじでわかる!シリーズ 青春出版社 p.158>

武力衝突と難民の発生

 すでにイギリス軍は「名誉ある撤退」を待つばかりで統治能力を失い、1936年のアラブ大反乱以来、秩序は失われていたが、この国連パレスチナ分割決議によってパレスチナの政治状況は一変した。パレスチナのアラブ人の抗議武装行動とユダヤ人シオニストの衝突が表面化した。1948年4月9日にはエルサレムの西の小村ディル・ヤースィーンでアラヴ人250人がシオニスト武装集団の襲撃によって虐殺された。ユダヤ人シオニストは分割案でユダヤ人国家予定地を次々と軍事制圧、それまでアラブ人とユダヤ人が共存していた都市のアラブ人たちの多くが難民となっていった。1948年5月のイスラエルの建国宣言で、パレスチナ戦争が始まったとされるが、それ以前の分割決議直後からユダヤ人の軍事行動によって衝突が始まり、難民の発生が始まっていたことに注意しよう。<臼杵陽『前掲書』 p.221>

パレスチナ戦争(第一次中東戦争)

 1948年5月14日にイスラエルが建国を宣言すると、アラブ連盟軍が一斉に侵攻し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発した。しかし、すでに軍備を整え、しかもイギリス・アメリカの支援を受けていたイスラエル軍に撃退され、イスラエルの建国は既成事実となった。アラブ諸国は敗北によってその連携の脆弱さと、古い王政のもとで国力が失われていた実態が明白になり、ナセルのエジプト革命に代表されるような変革が始まることになった。」

参考 国連分割案のその後

 イスラエルは高度な武装化を進め、アラブ諸国との中東戦争を通じて、その占領地を国連分割案の範囲をこえて拡張し、次々と入植者を送り込んでいった。戦火に追われ、ユダヤ人入植者に土地を奪われたパレスチナ人はパレスチナ難民としてヨルダン川西岸とガザ地区に逃れていった。その中から、イスラエルに強い敵意を抱くパレスチナ・ゲリラが出現、激しいテロ活動で抵抗し、それに対するイスラエルの報復が行われる、という悪循環が続いている。さらにイスラエルは国連分割案のラインを超えて、ヨルダン川西岸やガザ地区の制圧に乗り出し、ユダヤ人実効支配地を拡大して壁を作るようになった。また西チエルサレムの西半分も占拠し、実質的な首都機能を持たせると宣言した。
 これに対してかつて4次にわたってイスラエルと戦ったアラブ諸国は、1973年の第4次中東戦争を最後に、エジプトを始めとしてイスラエルとの共存に舵を切ったため、もはや連合してパレスチナ人を救援する姿勢を失い、替わってイスラエルとの戦いの全面にテロ組織であるハマスが、国家機構と同等な立場でイスラエルと戦うに至っている。2023年10月7日のハマスのイスラエル人質攻撃とそれを機に強行されているイスラエルのガザ侵攻では、アメリカなど国際政治では、世論の戦争反対の声にもかかわらず、ハマス(及び協力組織ヒズボラやフーシ派)のテロ行為を絶滅しようとするイスラエルの軍事行動を支援している。
 混迷するパレスチナ問題の始まりが1947年の国連によるパレスチナ分割であった。その強引な国連分割案にたいし、国際社会は大きく、長い、代償を払わなければならないでいる。世界には分割案以前のユダヤ人に対するホロコーストへの贖罪の思いが強いというさらに世界史を遡っての問題を含んでいるだけに、解決の困難さは想像に余りある。いまや、イスラエルに対して、せめてこの1947年の国連分割決議(それはユダヤ人にとって有利な内容だったのだから)の線まで戻るべきだ、というしかない状況になっている。