大気圏内外水中核実験停止条約/部分的核実験停止条約/PTBT
キューバ危機の翌年の1963年、米英ソ三国が締結した最初の核実験制限に関する国際条約。部分的核実験停止条約、PTBTともいう。地下実験は容認された。
1963年8月5日、アメリカ・イギリス・ソ連の三国によって締結された、部分的核実験禁止条約=PTBT(Partial Test Ban Treaty)。大気圏内外と水中の核実験は禁止されたが、地下実験は容認された。また当初はフランスと中国が参加しなかった。
原水禁運動 が始まり、またラッセル・アインシュタイン宣言に代表されるような国際世論も核実験に警鐘を鳴らし核兵器廃絶運動が世界的に広がった。
核の地下実験を含む全面的な実験禁止は、ようやく33年後の1996年9月10日には国連総会の場で包括的核実験禁止条約(CTBT)が可決されて実現したが、アメリカなど批准をしていない国が多く、まだ実効的になっていない。また核保有国であるインドは加盟していない。
原水爆禁止運動の前進
1954年にアメリカが行った南太平洋のビキニ環礁での水爆実験のため、マーシャル諸島の住民と日本の漁船第5福竜丸が「死の灰」を浴びて犠牲者が出たことは大きな衝撃を世界に与えた。放出された放射能が大気や海中で拡散し、動物の食物連鎖の中で凝縮されて人体と環境に悪影響を及ぼすことが明らかとなった。日本では核戦争の危機
核実験反対の国際世論が盛り上がり、米ソ両国も無視できなくなってきた。そのようなとき、1962年10月のキューバ危機で核戦争の危機を身をもって感じたアメリカのケネディとソ連のフルシチョフ両首脳は核実験の制限に合意し、8月5日の三石による調印の後、8月14日にはモスクワでも調印した。その上で10月10日に同条約は発効した。核実験の抜け道
これによって大気圏および水中の核実験が禁止されたが、核実験そのものは禁止されたのではなく、地下核実験は認められていた。そのため、「部分的核実験停止条約」と云われ不十分なものであったが、空気や海水を汚染させる核実験が禁止されたことは大きな一歩だった。しかし、米ソ主導で進められた条約に反発したフランスと中国はこの条約に参加しなかった。フランスの核実験は1960年から、中国の核実験は1964年からいずれも大気圏内で実施しており、70年代まで続けた。核の地下実験を含む全面的な実験禁止は、ようやく33年後の1996年9月10日には国連総会の場で包括的核実験禁止条約(CTBT)が可決されて実現したが、アメリカなど批准をしていない国が多く、まだ実効的になっていない。また核保有国であるインドは加盟していない。