パフレヴィー2世
イランのパフレヴィー朝第2代皇帝。1941年、父である初代のレザー=シャーの退位に伴い即位。1953年、石油国有化政策を推進したモサデグ政権をアメリカの協力で倒し、皇帝として独裁権力を握り、西欧化政策を進める。1963年、白色革命を宣言、農地改革など上からの近代化を図ったが、イスラーム教宗教勢力などの批判が強まり、1979年のイラン革命の勃発により亡命した。
パフレヴィー朝イランの第2代皇帝(シャー)。モハンマド=レザー=シャーともいう。幼少時はスイスなどで教育を受けた。1941年、父のレザー=シャーがドイツに接近したため、イギリスとソ連の攻撃を受け、退位したことによって17歳でシャー(皇帝)として即位した。
1963年3月19日には、シャー自身が「白色革命」と称した改革を宣言した。しかしその改革は上から押しつけられたものであったので、国内での不満はさらに高まった。シャーは改革の強行に反対する動きを反体制運動として、秘密警察(SAVAK)を用いて徹底的に弾圧し、市民の言論・出版の自由を剥奪した。
モサデグ政権を倒す
第二次世界大戦後のイランにおいてもイギリス、ソ連の圧力の中で立憲君主政が機能し、政治を内閣に任せていたが、石油国有化政策を強行したモサデグ政権を1953年8月19日にアメリカのCIAなどと協力してイラン=クーデタで倒して独裁的な権力を握った。白色革命
1961年からは、アメリカの要請もあってイランの政治と社会の西欧化政策をとりくみを開始したが、その経済成長優先の姿勢は開発独裁という性格が強かった。皇帝独裁体制を残したまま、国人に近代化を要求することは、国民生活を犠牲にする面が強かったので、民衆ばかりでなく、イスラーム教シーア派の宗教勢力からも不満が強まっていった。1963年3月19日には、シャー自身が「白色革命」と称した改革を宣言した。しかしその改革は上から押しつけられたものであったので、国内での不満はさらに高まった。シャーは改革の強行に反対する動きを反体制運動として、秘密警察(SAVAK)を用いて徹底的に弾圧し、市民の言論・出版の自由を剥奪した。
イラン革命で亡命
このようにパフレヴィー2世の政治はイラン国民の民族的・宗教的感情を無視したため、次第に国民の反発が強まり、1979年2月11日にイラン革命が起こり、国外に亡命した。末期癌を病んでいたのでアメリカは彼をニューヨークの病院に入院させたが、イラン国民は反発し、テヘランのアメリカ大使館人質事件が起こった。1980年、エジプトで死去した。