パフレヴィー朝
1925年にレザー=ハーンが建国したイラン(ペルシア)の王朝。1935年、国号をイランに改称。イギリス石油資本と結びつく。1979年、皇帝の西欧化に対する反発からイラン革命が起こり崩壊した。
イランにおいてガージャール朝を倒したレザー=ハーンが、1925年、シャー(レザー=シャーと称する)となって開いたイランの王朝(パフラヴィー、パーレビなどとも表記)。パフレヴィー朝は形態としては立憲君主制であるが、議会はすべて国王派が占め、レザー=シャーが軍隊を掌握する軍国主義体制がとられた。またイスラーム聖職者の影響力を排除して政治、文化の世俗化を進め、男女同権を提唱して女性の社会活動を推奨した。
これはいわゆる開発独裁の一例であり、独裁的な権力によって産業の近代化を図ろうというものであったが、それは国際石油資本に従属し国民生活に犠牲を強いるものだったので国民の支持を失い、1979年2月のイラン革命で崩壊する。
しかし、すでに当時はまだ無名であった宗教指導者ホメイニは、パフレヴィー2世の改革に対して抗議の声を上げていた。そして1979年には、シャーは退位し、亡命することになる。 <高橋和夫『イランとアメリカ、そしてイスラエル』2026 朝日選書 p.218>
国号をイランに変更
パフレヴィー朝はイスラーム以前のイラン固有文化の復興に力を入れ、1935年3月に国号も「イラン」に改称した。これはゾロアスター教の聖典『アヴェスター』からのとったことばであった。しかし、その一方で、1941年、ドイツに接近したレザー=シャーはイギリス、ソ連の圧力で退位させられ、子のパフレヴィー2世に替わった。パフレヴィー朝イランは石油の産出国となったため、ドイツ、イギリス、ソ連が強い関心を寄せるようになっていた。石油国有化政策とその失敗
第二次世界大戦でのイランはイギリスとソ連の軍事支配を受け、さらに戦後も石油資源のイギリス支配が続くいた。そのような中、1951年にはモサデグ首相による石油国有化政策が断行されたが、これはアメリカの支援を受けた軍によるイラン=クーデターによって潰されてしまった。白色革命
かわってパフレヴィー朝のシャーであるパフレヴィー2世が独裁体制を強め、1961年、積極的な西欧化を進める「白色革命」を開始した。これはいわゆる開発独裁の一例であり、独裁的な権力によって産業の近代化を図ろうというものであったが、それは国際石油資本に従属し国民生活に犠牲を強いるものだったので国民の支持を失い、1979年2月のイラン革命で崩壊する。
Episode キュロス大王よ、安らかに眠りたまえ・・・
1971年10月、古代アケメネス朝ペルシア帝国の首都であったペルセポリスの遺跡で、建国2500年祭が挙行された。主催したのはパフレヴィー2世。過去の諸王朝の衣装のイラン兵士が行進し、古代と現代を重ね合わせた。世界各国から国王や大統領が招かれ、その接待のために宮殿の前に広がる平原に巨大なテント村が設営され、パリの高級レストラン「マキシム」のシェフによる料理が出された。儀式の最後には、舞台がパサルガダエに移された。ここにはアケメネス朝の建国者キュロス2世(大王)の墓がある。その墓の前で、シャーは「キュロス大王よ、安らかに眠り給え、われら目覚めしゆえ・・・」との宣誓をした。パフレヴィー2世の父、レザー=シャーは王家の血筋にあるわけではなく、一介の軍人に過ぎなかったがパフレヴィー朝を創建した。第2代シャーは自分の時代に、ふたたびイランは偉大になるであろう、とキュロス王の前で報告したわけだ。しかし、すでに当時はまだ無名であった宗教指導者ホメイニは、パフレヴィー2世の改革に対して抗議の声を上げていた。そして1979年には、シャーは退位し、亡命することになる。 <高橋和夫『イランとアメリカ、そしてイスラエル』2026 朝日選書 p.218>