白色革命
イランのパフレヴィー2世による強制的な西欧化政策。1961年から着手され、まず土地改革によって地主ー小作関係の廃止が進められた。1963年には「白色革命」と命名され、上からの強制的な改革を強行、反対派を弾圧して進められ、ホメイニーも国外追放となった。農地改革も進み、宗教的規制も廃止されて市民生活は近代化されたが、経済格差は広がり、政府の秘密警察による反対派弾圧も続いたため、次第に独裁的な政治に批判が強まり、1979年のイラン革命が勃発する。
イランにおいて、1961年から始まる、パフレヴィー朝のパフレヴィー2世(モハンマド=レザー=パフラヴィー。日本では「パーレビ国王」といわれた)による強制的な西欧化政策であり、1963年3月19日にはシャー自ら「白色革命」と名付けて強行しようとした。
第一段階では、地主の土地所有の上限を一村とし、所有制限を超えた農地は農業省が買い取り、同地の小作農に有償で分配した。しかし適応対象外とした利用形態の土地が抜け穴とされたことや、親族への所有権移転が行われことで十分な成果は上がらなかった。
第二段階は、通称白色革命と言われる、国王が主導する「国王と人民の革命」で実施された。
しかし、農村人口の約半分を占めた耕作権も分益権ももたない農民は農地改革の恩恵を受けることはなかった。また新たに農地を取得した多くの農民も家計を支えるだけの土地は分配されなかった。さらに伝統的な相続の習慣で土地が代を重ねるごとに区分けされるため、自作農を維持することが困難な農民も現れた。
カナート農村の変質 イラン東部の乾燥地帯にはカナートという大規模な地下導水路が創られていたが、その多くは大都市のバザール商人が資本を投下して建造し、地主としてカナート用水を利用する農民から小作料を徴収して利益を上げていた。また、宗教指導者もカナートを所有する地主であることが多かった。白色革命はそのような地主の利権も廃止することだったので、バザール商人や宗教指導者は反対した。農地改革は強行されたが、地主には有利な保有地が認められ、小作人に分配された土地は少なかったので、自作農を創出するという目的には不十分だった。また地主は保有地で新たな深井戸を掘鑿し電動ポンプで地下水をくみ上げるようになったので、カナートを基盤としたイラン東部の農業は大きく変質することとなった。 → カナートのページを参照。
農地改革に対する反対運動は、自らも地主であった宗教指導者層から声が上がったが、改革そのものについても、民衆の中に国際石油資本による石油資源の支配や社会改革の遅れなどからイランの経済的困難は強まり、また専制政治のもとで腐敗が進行していたことに強い不満が鬱積していった。
改革の内容には労働者への利益配分とか、女性参政権の付与など、近代化にとって必要な項目も含まれていたが、皇帝が上から与える白色革命という形では受け容れがたいと感じられており、対立は却って深くなって行き、1979年のイラン革命へとつながっていく。
「白色」の意味 英語では文字どおり、White Revolution という。ここでいう「白色」とは、「皇帝が命じた」という意味である。フランスで「白」がブルボン朝の国王を象徴する色であったので、白色は国王や皇帝を意味するようになった。その国王や皇帝を倒す革命の象徴として赤色が用いられたので、白色は反革命を意味するようになった。革命側が国王や貴族に対して行うのが「赤色テロ」であれば、権力者側が革命家を暗殺する行為は「白色テロ」と言われた。イランの白色革命も、国王が行う革命(それ自体矛盾しているわけだが)なのでそう言われている。
アメリカの求める土地改革
パフレヴィー2世が封建的な土地制度の改革に踏み切ったのは、アメリカのケネディ大統領からの圧力があったからだと言われている。東西冷戦時代のアメリカは、ソ連・中国の共産圏諸国を抑え込むために、非共産諸国と軍事同盟を結んでいったが、その際、自由と民主主義の国アメリカが、封建的・非民主的な国家を支援することが建前上出来ないからであった。とはいいつつも、民主的な改革が反資本主義に傾くことも許さないので、イランにおいては石油国有化政策を進めようとしたモサデグ政権に対しては、1953年8月19日にイラン=クーデタで倒すことに協力した。アメリカが求めるのは、イランの近代化を阻害している地主制度と、宗教勢力が地主として大きな経済力を握り続けている体制を、パフレヴィー2世が上からの改革で廃止することであった。日本において敗戦後、アメリカの占領政策で農地改革が行われ、小作制度が廃止されたことと同じといえるだろう。強制的な上からの土地改革
農地改革は1962年、64年、68年の3段階に分かれて実施された。白色革命は一般に1963年のパフレヴィー2世の改革宣言をさしているが、主要な内容である土地改革は宣言とは別に、段階的に実施されていた。第一段階では、地主の土地所有の上限を一村とし、所有制限を超えた農地は農業省が買い取り、同地の小作農に有償で分配した。しかし適応対象外とした利用形態の土地が抜け穴とされたことや、親族への所有権移転が行われことで十分な成果は上がらなかった。
第二段階は、通称白色革命と言われる、国王が主導する「国王と人民の革命」で実施された。
白色革命
1963年3月19日、パフレヴィー2世は国王自ら「白色革命」と名付けた、6項目からなる改革内容を明らかにした。- 土地改革と地主・小作制度の廃止。
- 全国の森林および牧草地の国有化。
- 土地収用代金の補填としての国有工場の株式供与。
- 工場における労働者への利益配分。
- 婦人への参政権の付与。
- 公教育・義務教育実施のための教育部隊の創設。
土地改革の推進
農地改革は大幅に進められ、第一段階で24万人程度であった受益農民は、64年からの第二段階で、約124万人にまで広がった。そのうち第二段階の追加条項である三〇年定期借地として受益した農民は、約88万5000人にのぼった。さらに68年からの第三段階は、自作農を創設する方針で、上記の定置借地の借地権の購入などを農民に進めた。71年に国王が農地改革の終結宣言を行うまでに、地主から何らかの形で土地を取得した農民は200万人にものぼった。しかし、農村人口の約半分を占めた耕作権も分益権ももたない農民は農地改革の恩恵を受けることはなかった。また新たに農地を取得した多くの農民も家計を支えるだけの土地は分配されなかった。さらに伝統的な相続の習慣で土地が代を重ねるごとに区分けされるため、自作農を維持することが困難な農民も現れた。
カナート農村の変質 イラン東部の乾燥地帯にはカナートという大規模な地下導水路が創られていたが、その多くは大都市のバザール商人が資本を投下して建造し、地主としてカナート用水を利用する農民から小作料を徴収して利益を上げていた。また、宗教指導者もカナートを所有する地主であることが多かった。白色革命はそのような地主の利権も廃止することだったので、バザール商人や宗教指導者は反対した。農地改革は強行されたが、地主には有利な保有地が認められ、小作人に分配された土地は少なかったので、自作農を創出するという目的には不十分だった。また地主は保有地で新たな深井戸を掘鑿し電動ポンプで地下水をくみ上げるようになったので、カナートを基盤としたイラン東部の農業は大きく変質することとなった。 → カナートのページを参照。
白色革命に対する反対運動
1963年の国王の強制的な上からの白色革命宣言に対して、学生やシーア派法学者のなかから反対運動が起こった。最も激しい反対の声を上げ、運動を率先したのは、イランのシーア派の宗教指導者ホメイニであった。ホメイニー師によって扇動された民衆が暴動を起こすまでになった。政府は1963年3月26日、国王は国民投票にかけ、99.93%という高率の賛成で、革命を実行に移した。ホメイニー師も逮捕され、国外追放となった。国民投票では政府の不正介入があったともいわれているが、国王は議会を停止し、皇帝の独裁的な権限をさらに強化していった。農地改革に対する反対運動は、自らも地主であった宗教指導者層から声が上がったが、改革そのものについても、民衆の中に国際石油資本による石油資源の支配や社会改革の遅れなどからイランの経済的困難は強まり、また専制政治のもとで腐敗が進行していたことに強い不満が鬱積していった。
改革の内容には労働者への利益配分とか、女性参政権の付与など、近代化にとって必要な項目も含まれていたが、皇帝が上から与える白色革命という形では受け容れがたいと感じられており、対立は却って深くなって行き、1979年のイラン革命へとつながっていく。
「白色」の意味 英語では文字どおり、White Revolution という。ここでいう「白色」とは、「皇帝が命じた」という意味である。フランスで「白」がブルボン朝の国王を象徴する色であったので、白色は国王や皇帝を意味するようになった。その国王や皇帝を倒す革命の象徴として赤色が用いられたので、白色は反革命を意味するようになった。革命側が国王や貴族に対して行うのが「赤色テロ」であれば、権力者側が革命家を暗殺する行為は「白色テロ」と言われた。イランの白色革命も、国王が行う革命(それ自体矛盾しているわけだが)なのでそう言われている。