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白色革命

1960年代、イランのパフレヴィー2世におる強制的な西欧化政策。

 イランにおいて、1961年から始まる、パフレヴィー朝パフレヴィー2世(モハンマド=レザー=パフラヴィー。日本では「パーレビ国王」といわれた)による強制的な西欧化政策を白色革命という。

強制的な上からの近代化

 国際石油資本による石油資源の支配、社会改革の遅れなどからイランの経済的困難は強まり、また専制政治のもとで腐敗が進行する中、アメリカの要請もあり国内改革を迫られたパフレヴィー2世は、土地改革(農耕地の分配、森林国有化)、女性参政権、労働者への利益分配、国有工場払下げなどの6項目からなる「白色革命」プログラムを国民投票にかけ、63年に90%の賛成(政府の不正介入による)で実行に移した。一方議会は停止され、皇帝の独裁的な権限はさらに強化された。この強制的な改革に反対する学生運動やシーア派法学者の運動が起こり、各地で民衆の蜂起があったが厳しく弾圧され、その指導者ホメイニは逮捕され国外追放となった。 → イラン革命
「白色」の意味 英語では文字どおり、White Revolution という。ここでいう「白色」とは、「皇帝が命じた」という意味である。フランスで「白」がブルボン朝の国王を象徴する色であったので、白色は国王や皇帝を意味するようになった。その国王や皇帝を倒す革命の象徴として赤色が用いられたので、白色は反革命を意味するようになった。革命側が国王や貴族に対して行うのが「赤色テロ」であれば、権力者側が革命家を暗殺する行為は「白色テロ」と言われた。イランの白色革命も、国王が行う革命(それ自体矛盾しているわけだが)なのでそう言われている。
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