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イラン革命

1979年、シーア派宗教指導者ホメイニも率いられたイスラーム原理主義勢力にがイランのパフレヴィー朝を倒し、政権を奪取、イスラーム教国家を出現させた変革。

 1979年2月11日パフレヴィー朝が倒れ、イラン=イスラーム共和国が成立した革命。パフレヴィー朝はアメリカ資本と結んで石油資源の開発などを進め、その利益を独占する開発独裁の体制を続けていた。皇帝パフレヴィー2世の強行した「白色革命」以来、政治、文化、日常生活などあらゆる面で西欧化を進めていたが、国民生活は向上せず、対米従属の度合いを増していた。

ホメイニの登場

 それに対して16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のイランのシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まった。皇帝政治を批判して国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は国外から反政府活動を指導し、活発に活動した。
 1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に掲載されると、それを政府の陰謀であるとして暴動が起こり、宗教指導者に指導された学生や労働者、農民、市民が王制打倒を叫び始め、収拾をつけられなくなったパフレヴィー2世は1979年1月イランを離れ、皇帝政治が倒された。代わって亡命先のパリから戻ったホメイニが1979年2月11日、政権を掌握した。
 ホメイニは、シーア派の十二イマーム派の教義に忠実な「ファギーフ(イスラーム法学者)」による統治を掲げ、それまでのアメリカ文化の模倣を否定して厳格なイスラームの日常生活の規範を復活させた。裁判ではシャリーア(イスラーム法)が適用され、映画や文学、絵画もイスラームの教えに沿ったもののみが許され、女性には外出時のヘジャーブ(頭髪と肌の露出をさける衣服)の着用が義務づけられるなど、宗教色の強い、イスラーム原理主義を理念とした政治が展開されることとなった。
 1979年11月には、革命政府がアメリカに対して亡命した国王の身柄引き渡しを要求したところ、アメリカが拒否したため、革命支持のイラン人学生が激高し、テヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、81年1月まで占拠が続いた。

イラン=イスラーム共和国の建国

 革命政権は1979年から国号をイラン=イスラーム共和国と改め、イスラーム教シーア派の宗教指導者の指導する国家として出発し、さらにメジャーズ(国際石油資本)が革命の混乱を避けて撤退したのを受けて、石油国有化に踏み切り、資源保護の立場から石油輸出を制限する措置を打ち出した。そのため石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらすことになった。
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