イラン革命
1979年2月11日、シーア派宗教指導者ホメイニに率いられたイスラーム原理主義勢力によってイランのパフレヴィー朝王政が倒れ、ホメイニ師の指導するイスラーム教国家建設が始まった。新憲法が制定されイラン=イスラーム共和国が成立、ホメイニを最高主導者とするイスラーム法学者の統治する国家となった。
イランの皇帝パフレヴィー2世の強行した「白色革命による上からの近代化政策である白色革命を批判して国外追放となっていたシーア派宗教指導者ホメイニ師が1979年2月1日に帰国し、王政反対運動は最高潮に達した。全国で反王政ストライキが広がり、事態を収拾できなかった国王パフレヴィー2世は国外に逃れ、1979年2月11日、パフレヴィー朝は倒壊した。
政権を握ったホメイニは、イスラーム教信仰をもとにした宗教国家の建設を主張しており、その権威のによって反王政の諸勢力が結集し、イスラーム法学者の統治する国家を理念とした新憲法を制定して、イラン=イスラーム共和国を発足させた。その下に国民が選出する大統領と一院制の議会、裁判所の三権がおかれたが、それらの上に宗教と政治両面を統括する最高指導者がおかれ、ホメイニが就任した。
宗教国家としてイラン=イスラーム共和国が成立したことで、イラン=イスラーム革命と言われたが、20世紀の国際社会では他には例を見ない独自の国家体制の出現は家会で驚きを持って迎えられた。革命政権はそれまでの西欧化・近代化を進めた王政を倒して登場したことから、イスラーム信仰を優先して女性の権利や自由が制限されるなど、西欧諸国からは批判的に見られている。また、石油資源の国家管理などへの転換から、アメリカへの反発を強め、それは1979年の革命直後に起こったアメリカ大使館人質事件で極度に悪化した。
それに対して16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のイランのシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まった。皇帝政治を批判して国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は国外から反政府活動を指導し、活発に活動した。
1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に掲載されると、それを政府の陰謀であるとして暴動が起こり、宗教指導者に指導された学生や労働者、農民、市民が王制打倒を叫び始め、収拾をつけられなくなったパフレヴィー2世は1979年1月イランを離れ、皇帝政治が倒された。代わって亡命先のパリから1979年2月1日に帰国したホメイニは政権をとることを宣言、1979年2月11日に王政は否定され、ホメイニ政権が成立した。
ホメイニは、シーア派の十二イマーム派の教義に忠実な「ファギーフ(イスラーム法学者)」による統治を掲げ、それまでのアメリカ文化の模倣を否定して厳格なイスラームの日常生活の規範を復活させた。裁判ではシャリーア(イスラーム法)が適用され、映画や文学、絵画もイスラームの教えに沿ったもののみが許され、女性には外出時のヘジャーブ(頭髪と肌の露出をさける衣服)の着用が義務づけられるなど、宗教色の強い、イスラーム原理主義を理念とした政治が展開されることとなった。
また外交では、3月12日、イラン革命政府は中央条約機構(CENTO)を脱退、その後トルコも脱退して崩壊し、アメリカの中東における軍事防衛体制が崩壊した。
イラクはサダム=フセイン大統領のバース党など支配層はスンナ派であったが、国民の6割はシーア派であったため、イラン革命が波及することを警戒していた。イラン側も革命の混乱しており、体制が整わず、緒戦は押されていたが、却って戦争に対する危機感を訴えて革命への結集を呼びかけるのに成功し、1982年7月イラク領に逆侵攻した。ホメイニはこのイスラーム教徒同士の戦争は、アメリカやイスラエルを利するだけだとして、イスラーム教信仰を守る戦いとして位置づけ、国民に団結を呼びかけた。
政権を握ったホメイニは、イスラーム教信仰をもとにした宗教国家の建設を主張しており、その権威のによって反王政の諸勢力が結集し、イスラーム法学者の統治する国家を理念とした新憲法を制定して、イラン=イスラーム共和国を発足させた。その下に国民が選出する大統領と一院制の議会、裁判所の三権がおかれたが、それらの上に宗教と政治両面を統括する最高指導者がおかれ、ホメイニが就任した。
宗教国家としてイラン=イスラーム共和国が成立したことで、イラン=イスラーム革命と言われたが、20世紀の国際社会では他には例を見ない独自の国家体制の出現は家会で驚きを持って迎えられた。革命政権はそれまでの西欧化・近代化を進めた王政を倒して登場したことから、イスラーム信仰を優先して女性の権利や自由が制限されるなど、西欧諸国からは批判的に見られている。また、石油資源の国家管理などへの転換から、アメリカへの反発を強め、それは1979年の革命直後に起こったアメリカ大使館人質事件で極度に悪化した。
革命の勃発
1963年、パフレヴィー朝はアメリカ資本と結んで石油資源の開発などを進め、その利益を独占する開発独裁の体制を続けていた。皇帝パフレヴィー2世の強行した「白色革命」以来、政治、文化、日常生活などあらゆる面で西欧化を進めていたが、国民生活は向上せず、対米従属の度合いを増していた。それに対して16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のイランのシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まった。皇帝政治を批判して国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は国外から反政府活動を指導し、活発に活動した。
1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に掲載されると、それを政府の陰謀であるとして暴動が起こり、宗教指導者に指導された学生や労働者、農民、市民が王制打倒を叫び始め、収拾をつけられなくなったパフレヴィー2世は1979年1月イランを離れ、皇帝政治が倒された。代わって亡命先のパリから1979年2月1日に帰国したホメイニは政権をとることを宣言、1979年2月11日に王政は否定され、ホメイニ政権が成立した。
ホメイニは、シーア派の十二イマーム派の教義に忠実な「ファギーフ(イスラーム法学者)」による統治を掲げ、それまでのアメリカ文化の模倣を否定して厳格なイスラームの日常生活の規範を復活させた。裁判ではシャリーア(イスラーム法)が適用され、映画や文学、絵画もイスラームの教えに沿ったもののみが許され、女性には外出時のヘジャーブ(頭髪と肌の露出をさける衣服)の着用が義務づけられるなど、宗教色の強い、イスラーム原理主義を理念とした政治が展開されることとなった。
イラン=イスラーム共和国の建国
革命政権は1979年から国号をイラン=イスラーム共和国と改め、イスラーム教シーア派の宗教指導者の指導する国家として出発し、さらにメジャーズ(国際石油資本)が革命の混乱を避けて撤退したのを受けて、石油国有化に踏み切り、資源保護の立場から石油輸出を制限する措置を打ち出した。そのため石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらすことになった。また外交では、3月12日、イラン革命政府は中央条約機構(CENTO)を脱退、その後トルコも脱退して崩壊し、アメリカの中東における軍事防衛体制が崩壊した。
アメリカ大使館占拠事件
1979年11月には、革命政府がアメリカに対して亡命した国王の身柄引き渡しを要求したところ、アメリカが拒否したため、革命支持のイラン人学生が激高し、テヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、81年1月まで占拠が続いた。イラン=イラク戦争
1980年9月17日、西隣のイラクのサダム=フセイン大統領がイラン領への侵攻を開始した。革命直後のイランの混乱に乗じた侵略行為であったが、イラン=イラク戦争といわれ、西欧諸国にはその戦闘の意図や実態が分からないまま、長期化し1988年まで続くことになった。イラクはサダム=フセイン大統領のバース党など支配層はスンナ派であったが、国民の6割はシーア派であったため、イラン革命が波及することを警戒していた。イラン側も革命の混乱しており、体制が整わず、緒戦は押されていたが、却って戦争に対する危機感を訴えて革命への結集を呼びかけるのに成功し、1982年7月イラク領に逆侵攻した。ホメイニはこのイスラーム教徒同士の戦争は、アメリカやイスラエルを利するだけだとして、イスラーム教信仰を守る戦いとして位置づけ、国民に団結を呼びかけた。
革命後のイラン
革命の混乱が収まらないうちに始まったアメリカ大使館占拠事件とイラン=イラク戦争は、かえってホメイニにとってナショナリズムとイスラーム信仰を一致させて革命を指導する上で有利に働いた側面がある。イランイラク戦争終結後まもなく、1989年6月3日にホメイニは死去し、無数のイラン国民が追悼する中で葬儀を終え、大統領のハメネイを後継者として指名し生涯を終えた。こうしてホメイニの革命でもあったイラン革命は第一段階を終わったが、その強烈な反米思想、反イスラエル思想は引き継がれ、イランには危機が連続することとなる。革命政権に対してはその祭政一致の原則の下での人権無視、特に女性に対するヘジャブの強制などにたいする批判が続いている。