統一労働者党(ポーランド)
マルクス主義(共産主義)政党であるポーランド労働者党(共産党)が、1948年に社会党と合同して結成。実質的には共産主義政党であり、第二次世界大戦後のポーランドで1980年代まで権力をにぎった。ソ連共産党(スターリン)の影響下にあったが、1956年の反ソ暴動を機にゴムウカの指導で、ソ連との同盟を維持しながら独自路線をとった。しかし次第に体制の硬直化、経済の停滞を招き、1989年の東欧革命で政権の座を失った。
ポーランドの共産主義政党
ポーランドの共産党は1918年に社会民主党と社会党左派が合同して成立したが、議会に議席を持つことはできず、1926年のピウスツキ独裁政権の下では非合法化された。1929年の世界恐慌が波及して社会不安が増大する中、勢力を拡張したが、30年代にはスターリンのもとで多くが粛清され、コミンテルンによって解散を命じられて組織的活動を停止した。注意 ポーランド共産党の党名 ポーランド共産党はその後、労働者党→統一労働者党と名称を変えるが、共産主義政党として実質的には共産党と変わらないので、そのまま共産党として説明されることが多い。 → 共産党
第二次世界大戦
1939年9月、ドイツ軍とソ連軍が東西からポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まると、両軍によって分割占領され、亡命政府がパリ(後にロンドンに移る)に作られた。ドイツ占領地域ではポーランド人の自由が奪われただけでなく、ユダヤ人が対する絶滅政策が進められ、ソ連占領地域では亡命政府系のポーランド軍将校が大量に虐殺されたカチンの森事件(戦後に明らかになった)や、多くの国民がソ連軍に徴兵されたり、ソ連内に連行されて寒さと飢えで死亡するなどの苦難が続いた。ポーランド労働者党
1941年6月、独ソ戦が始まると、ソ連は戦後のポーランドへの影響力を残すため、ソ連に亡命していた共産党活動家をポーランドに潜入させ、42年に共産党を「労働者党」という名で復活させた。ソ連軍はスターリングラードの防衛に耐えた後に反撃に転じ、ドイツ軍を追ってワルシャワに迫ったが、亡命政府の指示を受けたワルシャワ市民は1944年8月1日に独力で蜂起した。このワルシャワ蜂起はソ連軍の支援がなく63日に及ぶ市街戦の末、鎮圧された。指導者ゴムウカ
東側からドイツ軍を追いつめたソ連軍によって、ポーランドは解放されることとなった。ソ連の指導のもとでルブリン政府と言われる臨時政府が作られ、複数の政党が参加したが、主導権を握ったのは親ソ的な労働者党(実質的に共産党)が主導権を与えられた。臨時政府は反ソ的な旧レジスタンス活動家などを逮捕し、ソ連内の強制収容所に送るなどの弾圧を加えた。同年6月、挙国一致内閣が発足、労働者党の第一書記ゴムウカが副首相となった。1947年1月には戦後初めての選挙が実施されたが、候補者事前登録制など巧妙な選挙制度によって労働者党票が多数を占め、新議会で暫定憲法が採択されるとともに労働者党のビエルトが大統領に選出された。この選挙は当初から他派が当選できないように操作されていたと言われており、旧亡命政府系の政治勢力はこれで完全に排除されることとなった。
この間、党を指導したゴムウカはモスクワのソ連共産党に忠実な人物とみられていたが、45年暮に「社会主義へのポーランドの道」を発表して、「人民民主主義」と言われる路線を表明し、暴力革命や一党独裁の否定、カトリック教会との共存や小農経営、営業の自由などを含む、ソ連とは異なる独自路線をとろうとした。さらにゴムウカは、47年、アメリカの打ち出したヨーロッパ復興計画(マーシャル=プラン)を受け容れようとしたことでソ連が警戒し、党内の親ソ派を動かしてゴムウカを第一書記から解任した。
統一労働者党の結成
ゴムウカは党の支持基盤を広げようとして労働者党と社会党と合同して統一労働者党と改組することを進めていたが、1948年末に合同が成立したときはゴムウカは「右翼的民族主義に偏向」しているとして排除され、さらに51年には逮捕、投獄される。こうして党の主導権はスターリンの影響力の強いモスクワ派が主流を占めるようになり、戦前からの民族派や自主路線派は排除された。1952年にポーランド人民共和国が成立し、一党独裁のもとで、農業の共同化や急速な工業化などの社会主義国家体制施行されることとなった。
反ソ暴動の勃発
しかし、1956年にソ連でスターリン批判が始まり、雪どけの気運が高まる中、ポズナニで始まったポーランド反ソ暴動は全国的な規模に広がった。統一労働者党はソ連と協議することなくゴムウカを復帰させて事態の収拾を図った。それに対してソ連のフルシチョフ ゴムウカはソ連軍の介入を拒否すると共にソ連共産党との関係の修復に努め、ワルシャワ条約機構から離脱しないことを条件に権力に復帰し、混乱を収束させた。ゴムウカ政治の行き詰まり
ソ連との一定を保ちながら独自路線をとり、安全保障上はソ連との同盟関係を維持するというゴムウカの手法は一定の安定をポーランドにもたらした。しかし、ゴムウカは国内の民主化や党改革には熱意を示さず、統一労働者党による一党独裁体制が強められていった。その長期支配の中でスターリン派も復権し、政権運用は次第に硬直化、また経済も停滞していった。1970年の経済政策失敗を機に大規模なストライキが起きてゴムウカは第一書記を退陣し、ギエレクに代わった。しかし、その後も社会主義経済の停滞が続きポーランドの民主化要求が強まっていった。
ポーランドの民主化
1980年7月にはグダニスク造船所の労働者がストライキに立ち上がり、統一労働者党の統制を受けない労働組合として独立自主管理労組を結成し、その全国組織である「連帯」の代表ワレサは統一労働者党の一党独裁や硬直した経済運営を厳しく弾劾した。混乱の責任をとってギエレクは退陣、代わったヤルゼルスキ政権は、1981年12月に戒厳令を布いて連帯を非合法化して弾圧した。しかし、その後も社会主義経済の立て直しに失敗、物価上昇などの不安が続いたため、1988年には再び全土にでストライキが起こった。
1989年には一連の東欧革命の先陣を切ってポーランドで大きな変動が起こった。「連帯」指導のデモがくり広げられるなか、統一労働者党第一書記ヤルゼルスキは妥協を強いられて2月から連帯などとの円卓会議に応じ、その結果、大統領制・複数政党制・自由選挙・労働組合活動の自由などを認めた。これらは統一労働者党が掲げてきた社会主義政治体制を放棄するものであった。その結果行われた1989年6月の総選挙で「連帯」は圧勝し、統一労働者党は政権の座から降りることとなった。
統一労働者党の解散
翌1990年1月、統一労働者党は最後の党大会を開いて解散を決定し、社会民主党と改称、自由民主主義、私有財産制、西側諸国との友好など、まったく新しい方針に転換した。