イラン・アメリカ大使館人質事件
1979年、イラン革命に介入した米大使館がイラン人学生らに占拠された事件。翌年、アメリカはヘリコプターによる救出作戦に失敗、カーター大統領の支持率が急落した。
イラン革命のさなか、1979年11月4日、イランのテヘランでアメリカ大使館が革命派の学生に占拠され、大使館員が人質となった事件。この年1979年2月11日に指導者ホメイニに率いられた革命が成功し、パフレヴィー2世は癌の治療を口実にアメリカに亡命した。イラン革命政府はパフレヴィー2世の身柄の引き渡しを要求したが、アメリカがそれを拒否したことに憤激した学生がアメリカ大使館を占拠し、館員52名を人質にしたのだった。アメリカ政府は報復をほのめかしながら交渉に当たったが難航し、苦境に陥った。
後のイラン大統領となり、過激な反米政策を掲げたアフマディネジャドはこの占拠グループの一員だったといわれている。
結果は危機一髪、大使館員等は脱出に成功するのだが、その詳細は1999年まで秘密扱いとされ、クリントン大統領の時に初めて公表された。この事実をもとに公表後の2012年に映画化されたのが『アルゴ』という作品で、ベン=アフレックが監督主演し、翌年のアカデミー賞作品賞を受賞した。映画は当然、ドラマチックに造られていて細部はかなり事実と違うが、大筋では史実に基づいており、イラン革命およびアメリカ大使館人質事件の副産物としてのドラマとしてはよくできていた。日本ではあまり話題にならなかったが、事件の背景となった時代を知るには材料となろう。
アメリカ、救出作戦に失敗
翌1980年4月、人質救出を試みたアメリカのヘリコプターが砂漠の中で故障して救出に失敗し、カーター大統領の人気は急落、その年の大統領選挙で「強いアメリカ」の復活を掲げたレーガンに敗れることとなる。最終的には裏での取引があり、ようやく1981年1月20日に人質は解放された。その日はちょうど、ワシントンでアメリカの新大統領レーガンの就任式の日だった。後のイラン大統領となり、過激な反米政策を掲げたアフマディネジャドはこの占拠グループの一員だったといわれている。
Episode 「鷹の爪」作戦の失敗
(引用)1980年4月24日の深夜、八機のヘリコプターが、アラビア海に停泊中のアメリカ艦船から飛び立った。時を同じくして、六機の輸送機が、エジプトから離陸した。乗組員たちは、イランの砂漠で落ち合い、また別な場所に移動してから、陸路テヘランへ向かうことになっていた。イランの革命勢力によって、テヘランのアメリカ大使館で5ヶ月にわたって人質にとられていた53名のアメリカ人を救出するためである。「鷹の爪」と名づけられたこの作戦は、無残な失敗に終わった。三機のヘリコプターが砂塵のためにイランに到達できず、もう一機も故障に見舞われた。作戦の中止が決定されたあと、混乱の中で、ヘリコプターと輸送機が衝突し、八名が死んだ。衝撃を受けたカーター大統領が、国民に秘密作戦の失敗を告げたのは、それから数時間あとのことであった。「この任務を開始した責任は大統領としての私にある。この任務を中止した責任も、大統領としての私にある。」アメリカの威信が、この事件で大きく傷ついたのは言うまでもない。イランの指導者アーヤトッラー=ホメイニは、アメリカ軍の失敗を導いたのは神の思し召しであると宣言した。<西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.183>→ アメリカの外交政策
秘密裏の脱出成功
イランのアメリカ大使館が占拠され、大使館員が軟禁されたとき、密かに現場から脱出し、カナダ公使の私邸などに隠れた6人がいた。イラン革命派はその事実に気づかなかったが、彼らをどのようにテヘランから救出するか、アメリカ当局は苦慮することとなった。大使館で人質となっているアメリカ人に危害が及ぶことを避けなければならず、カナダ大使館の協力も極秘裏に進めなければならなかった。アメリカ情報局(CIA)は6人が脱走したことを極秘とし、いくつかの救出プランを立案したが、その一つが怪しまれずにイランに入国し、6人を国外に脱出させる方法として、なんと架空の映画のロケハンのためのスタッフに化けるということだった。結果は危機一髪、大使館員等は脱出に成功するのだが、その詳細は1999年まで秘密扱いとされ、クリントン大統領の時に初めて公表された。この事実をもとに公表後の2012年に映画化されたのが『アルゴ』という作品で、ベン=アフレックが監督主演し、翌年のアカデミー賞作品賞を受賞した。映画は当然、ドラマチックに造られていて細部はかなり事実と違うが、大筋では史実に基づいており、イラン革命およびアメリカ大使館人質事件の副産物としてのドラマとしてはよくできていた。日本ではあまり話題にならなかったが、事件の背景となった時代を知るには材料となろう。