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タレントゥム

ギリシア人の植民都市で、現在のタラント。前272年にローマに服属し、ローマの半島統一が終わった。

 南イタリアの都市で現在のタラント。タラスとも言う。前8世紀にギリシアの有力ポリス、スパルタ植民市として建設された。前5~4世紀、南イタリアはマグナ・グラエキア(“大ギリシア”の意味)といわれたほどギリシア人の移住が多く、ネアポリスシラクサなど、沢山の植民市がつくられたが、イタリア半島南部でのギリシア系都市の中心として繁栄したのがタレントゥムであった。

ローマに服属する

 中部イタリアに起こった都市国家のローマは、その勢力を南下させ半島統一戦争を進めたが、その軍用道路として造られたアッピア街道もタレントゥムへの延長が企てられた。 前3世紀にローマの勢力がタレントゥムに迫ると、タレントゥムは本国ギリシアのエペイロス王国ピュロス王に援軍を求めた。
ピュロス戦争 イタリア半島に勢力を伸ばそうと考えていたピュロス王はマケドニアの象部隊も動員して来援し、前280年のヘラクレイアの戦い、翌年のアスクルムの戦いで連続してローマ軍を破った。しかし、ローマまで北上することはできず、方向を転じてシチリア島を攻撃、そこではカルタゴ軍と戦った。結局、ピュロス王は本国に引き揚げたため、タレントゥムを救援するという目的を達成することはできなかった(このような実利を得なかった勝利を「ピュロスの勝利という)。
 その結果、ローマ軍の南下は再開され、前272年にはタレントゥムもローマに服属した。タレントゥムのローマへの降服はギリシア植民市の中で最も遅く、これによって、ローマのイタリア半島統一戦争が終わった。
 ローマはギリシア人植民都市を征服したことによって、ギリシア文化に直接触れることとなり、その強い影響を受けることとなる。
第2回ポエニ戦争 第2回ポエニ戦争ではカルタゴハンニバルがイタリア半島を南下し、最南端のタレントゥムに達し、前214年に占領した。ハンニバルはシチリア島とカルタゴ本国との連絡を取る上で、タレントゥムを重視した。しかし、前212年にはシチリア島のシラクサがローマの手に落ち、このタレントゥムも前209年にローマ軍によって奪還された。これを機に、イタリア半島におけるハンニバル軍の勢いは後退していく。
 再びローマ領となったタレントゥムは、ローマの地中海進出の重要な港として栄えたが、9世紀以降はたびたびイスラーム教との侵攻を受けることとなる。
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ノートの参照
1章2節 ウ.ポリスの成立と発展