印刷 | 通常画面に戻る |

ピュロス

前3世紀初めのギリシア西部にあったエペイロス王国の王。イタリア半島南部のギリシア系都市を助けてローマと戦って一時勝利をおさめた。

 ピュロス(前319~前272)は、紀元前3世紀の初め、アレクサンドロス帝国が解体した後のギリシアで、マケドニアの西にあったエペイロス王国(エピロスとも表記)の王。アドリア海一帯に勢力を伸ばし、ギリシアの統一、さらにイタリア遠征までおこなった野心家であった。

ピュロス戦争

 前280~275年のローマとギリシアのエペイロス王ピュロスとのイタリア半島南部をめぐる戦争をピュロス戦争という。都市国家ローマがイタリア半島を統一して広域支配国家に転換する過程で起こった半島統一戦争の一部であった。
 ローマは前4~前3世紀、サムニウム戦争などイタリア半島統一の闘いを進め、前312年にはアッピア街道を建設して南イタリアへの進出を強めた。この闘いを通じて重装歩兵として軍事力を支えた平民の発言権が強まり、前287年にホルテンシウス法が成立して共和政を完成させた。
 一方、このようなローマの南下におびやかされたイタリア半島南端のギリシア人植民都市タレントゥム(タラント、タラス)では、ギリシア本土のエペイロス王ピュロスに援軍を依頼した。イタリア半島進出を狙っていたピュロスはマケドニア軍と共同して大軍を出動させ、ローマ軍と戦った。
 ピュロスは前280年のヘラクレイアの戦い、前279年のアスクルムの戦いでは連続してローマ軍を破り、その後も優勢に戦いをすすめたが、決定的な勝利を得ることが出来ず、講和を締結することにも失敗した。
 ピュロスは狙いをシチリア島に変更し、転戦した。しかしシチリアを勢力圏とするカルタゴと戦うこととなったため、長期にわたる遠征はなんら得ることがなく、結局撤退した。
 態勢を立て直したローマ軍が南下を再開、前272年にはついにタレントゥムが降伏、前270年までに、南イタリアのギリシア系植民市(マグナ・グラエキア)はすべてローマに服属し、ローマの半島統一戦争は終わった。ついでローマの勢力はシチリア島に伸び、カルタゴと対立することとなる。

Episode ピュロスの勝利

 エペイロス王国の王ピュロスがタレントゥムを支援してローマと戦ったピュロス戦争では、ピュロスはマケドニアの象部隊を含む大軍を派遣してローマ軍を破った。しかし、タレントゥムを救出するという目的を達することはできなかった。このことから、「大きな犠牲を払っても引き合わない勝利」(言いかえれば、戦いには勝ったが利益を得ることはできなかった「空しい勝利」)のことを”ピュロスの勝利”という。
(引用)アレクサンドロス大王の時代が終わったころ、ローマ人もまた、小さな都市との小さな戦争ではもはや満足しなくなった。彼らは本気で、半島の全部を占領することにとりかかった。しかしアレクサンドロスのようにたったいちどの大遠征によってではなく、じゅうぶん時間をかけてゆっくりと、彼ら固有の性格である粘り強さと一徹さでもって、近隣の都市のひとつひとつを攻略していった。そしてローマが威をふるう大都市になると、イタリアの他の都市はローマと同盟を結ぶことを望んだ。ローマ人はよろこんで受け入れた。しかし、同盟の仲間がローマとちがう考えをいだき、したがうことをやめると、戦争になった。レギオンとよばれたローマの軍団は、たいていの場合勝利した。あるとき、南イタリアのある都市がローマとの闘いに、ギリシアの将軍ピュロスに援けをもとめた。ピュロスは、ギリシア人がインドで知った戦闘用に訓練された象の群れをつれてやってきた。この象の軍団で彼は、ローマのレギオンを破った。しかし味方の戦死者もあまりに多く、彼は「たとえ勝っても、このような戦争は二度としたくない」といったという。このことから今日でも、犠牲の多い勝利のことを「ピュロスの勝利」という。<ゴンブリッチ/中山典夫訳『若い読者のための世界史―原始から現代まで―』上 2012 中公文庫 p.136>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
1章3節 イ.地中海征服とその影響
書籍案内

E・H・ゴンブリッチ
/中山典夫訳
『若い読者のための世界史―原始から現代まで―』上
2012 中公文庫
原書は1985年刊