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都市ローマの歴史

古代地中海世界の中心都市ローマの、建国神話から現代までの概観。イタリア中部の都市国家から出発し地中海全域を支配する帝国の首都に発展した。ローマ教会成立後は、キリスト教世界の中心として、中世から現代まで政治、文化の重要都市として続いている。


(1)ローマの建国神話

トロイア戦争の勇者アイネイスがイタリアに上陸し、その子孫のロムルスが建国したと伝える。

ローマの建国神話 アエネイスの彷徨

 ローマの建国神話は国民的詩人ウェルギリウス『アエネイス』の叙事詩に物語られている。ギリシアのトロイア戦争でトロイアが落城したとき、トロイアの勇者アイネイスだけが脱出することが出来た。トロイアの再建を念じながら新天地を求めて地中海各地を彷徨し、苦難のすえにようやくイタリアに上陸、ラテン人の住む土地にやってきたアエネイスは、ラティウムの王の娘と結婚し、そこに新たなトロイアの都を建設しラウィニムと命名した。

ローマの建国神話 ロムルスとレムス

ロムルスとレムス
オオカミに育てられるロムルスとレムス
 アエネイスの子がアルバ・ロンガの王となり、200年の後、王位をめぐる争いが生じた。兄ヌミトルの王位を狙った弟アムリウスは、兄の孫のうち男は皆殺し、女子のレア・シルヴィアをウェスタ神の巫女にしてしまった。レアは川辺で居眠りするうち、軍神マルスの子を身籠もる。彼女は双子の男の子を産んだがアムリウスは怒って双子を籠に入れてテヴェル川に流してしまった。だが双子を入れた籠はイチジクの木に引っかかって川岸に流れ着いた。そこに一匹の雌狼がやってきて双子に乳を与えた。その後双子は王の羊飼いに発見されて育てられ、ロムルスとレムスと名づけられる。やがて成長した二人はアムリウスを討ち、祖父のヌミトルを復位させる。そして自分たちが拾われた場所に新しい都を建てようと、それぞれ丘を選び、どちらが新都の支配者になるか鳥占いで決することにした。翌朝、ロムルスの選んだ丘には12羽、レムスの丘には6羽が飛来したので、ロムルスが選ばれたことになった。ロムルスは二頭の牛に引かせた犂で都の聖域を定めた。しかし不満なレムスはそれを飛び越えてしまう。怒ったロムルスはレムスを殺し、聖域を侵す者は殺すと宣言、絶大な支配者となり、その都はロムルスにちなんでローマといわれるようになった。この出来事は前753年4月21日のこととされ、今でもローマの住民のまつりの日となっている。またローマ人は、キリスト紀元が行われるようになるまでは、この年を紀元元年として年代を数えていた。そして現代でもローマの町の象徴は、狼のお乳を飲む双子の像である。<モンタネッリ『ローマの歴史』中公文庫/本村凌二『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史2 中央公論新社/青柳正規『ローマ帝国』2004 岩波ジュニア新書などによる>

Episode ローマの建国神話 サビニの女たち

 ローマの王となったロムルスは人口を増やすために周辺住民の移住を奨励した。しかし移り住んできたのは男がほとんどだった。これでは人口は増えないので、ロムルスは一計を案じ、ローマにほど近いところに住むサビニ人の男たちを催し物に招き、男たちが見物に熱中しているスキにサビニの女たちを略奪した。怒ったサビニの男たちとローマの男たちのあいだで激しい戦いとなったが、略奪されたサビニの女たちが間に入り、「どちらが勝利をおさめても私たちが不幸になることにかわりはありません。サビニ人が勝てば夫を失うことになります。ローマ人が勝てば親兄弟を失うことになります」と訴えたので戦いは中止され、ローマはラテン系とサビニ系の住民がともに住むようになった。<青柳正規『ローマ帝国』2004 岩波ジュニア新書 p.9>

(2)古代の都市国家ローマ

都市国家ローマは王政から貴族共和政へ、さらに共和政へと転換した。その間、イタリア半島を統一をすすめ、ローマは政治都市として発展した。

 ローマはイタリア半島中部のテヴェル川河畔に生まれた小都市国家に始まる。その住民はインド=ヨーロッパ語系のイタリア人の中の一部であるラテン人であった。最近の考古学の調査によれば、パラティヌスの丘にこの集落が作られたのは前10~前9世紀にかけてのことで、ロムルスの建国伝承の前753年よりも前のことである。建国神話はなんらかのローマ人の記憶が反映していると考えられる。
 前7世紀に北方のエトルリア人の勢力が及び、前616年からはエトルリア人の王政がおこなわれた。それまでのローマは、ラティウム地方に点在する集落の一つにすぎなかったものが、すでに都市文化段階に入っていたエトルリア人の手によって都市化され、ラティウム地方の有力な都市に成長した。

王政から共和政へ

 都市が形成される過程でその指導者層であった有力者の子孫は、貴族の合議体として元老院をつくった。彼らは元老院議員の地位を独占的に世襲し、前509年に、エトルリア人の王を追放して共和政に移行させたが、それは貴族共和政であった。貴族共和政のローマでは、パトリキと言われた貴族と、プレブスといわれた平民では画然とした違いがあり、元老院から選出されて政権を担当するコンスル(執政官)の二人も貴族に独占されていた。
貴族と平民の身分闘争 経済の発展と共に力をつけてきたプレブス(平民)は、武器を自弁して重装歩兵としてローマの防衛と拡大に協力したことによって、パトリキ(貴族)に対して政治的平等を要求するようになった。それが身分闘争といわれる経緯で、およそ前5~前3世紀中頃まで続いた。
共和政の完成 その経緯は、まず前494年聖山事件を機に平民会護民官の設置が認められ、前450年十二表法で成文法が制定された。前367年リキニウス・セクスティウス法でコンスルの一人は平民から選出されること、パトリキの公有地占有が制限されたことで両者の法的平等は実現した。こうして平民が貴族と同等の権限を持つローマ共和政を成立させていった。
半島統一戦争 それに並行して周辺の諸都市を征服し、前4~前3世紀に半島統一戦争を展開した。まず近隣のラテン人諸都市を前338年までに制圧した(ラテン同盟戦争)。並行してサムニウム戦争でイタリア半島中部を征服し、さらに半島南端のギリシア人植民市(マグナ=グラエキア)の中心都市タレントゥムに迫り、援軍のエペイロス王ピュロスとの戦いでは苦戦を強いられたが、ついに前272年にタレントゥムを制圧し半島統一を達成した。
ノビレスの出現 リキニウス・セクスティウス法で法的平等を獲得した平民の中には、コンスル以下の高官になったり、元老院議員となるものも現れた。彼らは豊かな財力を持ち官職につくことで実質的な新たな支配層を形成し、従来の貴族と区別して新貴族(ノビレス)と言われるようになった。ノビレスが主力となった平民会は、前287年ホルテンシウス法が成立して、その決議が元老院の承認が無くとも国法とされることとなり、ローマ共和政は形式的にも整備された。
地中海進出 イタリア半島を統一した都市国家ローマは、その勢力を地中海に拡張し、シチリア島などに進出した。そこでフェニキア人の植民都市から出発し西地中海で交易活動を展開していたカルタゴと衝突した。前264年から3次にわたって行われたポエニ戦争では、一時カルタゴの将軍ハンニバルがローマに迫るほどの危機となったが、最終的には勝利を占め、前146年にカルタゴを破壊した。この勝利によってローマは西地中海の制海権と共に属州(プロヴィンキア)を獲得、さらに、第2次ポエニ戦争後にマケドニア戦争でギリシアを征服し、東地中海から西アジアにもその勢力を伸ばした。

共和政ローマの都市形成

 ローマではテヴェレ川左岸にエンポリウム(港湾施設)とポルティクス・アエミリア(小麦の集積貯蔵蔵)が、天然セメントを用いた最古のコンクリート建築であった。市民の社会生活の中心であるフォルム・ロマヌム(中央広場)には、元老院議事堂、サトゥルヌス神殿やカストル神殿が造られ、周辺には新旧の商店街が広がっていた。第2回ポエニ戦争後に東地中海がローマ領となった結果、ギリシア文化がローマに大きな影響を及ぼすようになり、このころのローマにはギリシア風の建築や彫刻があふれていた。バシリカは裁判を行うと同時に商取引の場でもあった。前184年に大カトーが元老院議事堂の西脇に建設したバシリカ・ポルキア(カトーの氏族名ポルキウスによる)と命名した。前6世紀には大下水道(クロアカ・マクシマ)、前312年にはアッピア街道を作ったことで知られるアッピウスが、ローマ最初の水道であるアッピア水道を作っている。それ以後、ローマの拡大に伴って上下水道が整備されていった。<以下も、青柳正規『皇帝たちの都ローマ』1992 中公新書 による>

ローマ共和政の崩壊

 ローマの支配権がイタリア半島に留まらず、海外領土をも獲得するに至り、本来の都市国家としての共和政の原則は維持することが困難になっていった。海外の属州からの奴隷と安価な穀物の流入はラティフンディア(大土地所有)を拡大させ、中小農民の没落とともに大量の無産市民(プロレタリア)を出現させた。一方では属州の徴税請負人となって富を貯えた騎士(エクイテス)層が元老院議員層に次ぐ政治的勢力となっていった。前133年,前123年のグラックス兄弟の改革の失敗によって、このローマ共和政の動揺はさらに進んだ。そして中小農民の没落はローマの市民軍を弱体化させ、ユグルタ戦争などを契機に、マリウスによる兵制改革が行われ、マリウスとスラという有力者がそれぞれ私兵を蓄えて抗争するようになった。こうしてローマ共和政は根本から維持が困難となり、前1世紀はローマが帝政に移行する転換期となった。

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(3)帝国の首都ローマ

前1世紀に都市国家から領域国家に変質、前27年には帝政に移行、ローマは帝国の首都となり、地中海世界の中心として繁栄した。

「内乱の1世紀」のローマ

 共和政末期の前1世紀、このころすでにローマは数十万の人口を擁していた。いわゆる「内乱の1世紀」の時代に、閥族派(門閥派)と平民派(民衆派)に分かれて権力闘争を繰り広げた将軍たちは、イタリア同盟市戦争ミトリダテス戦争等の対外戦争や、スパルタクスの反乱などの奴隷反乱を鎮圧することで名声を挙げ、互いに争うようになった。
 特にイタリア同盟市戦争の結果、イタリア半島の自由人すべてにローマ市民権が与えられたことは、ローマが都市国家から領域国家に変質したことを意味しており、ローマはその首都としての政治的性格を強めることとなった。
 マリウススラなどの権力をにぎった有力者は、その功績をローマ市民に知らせるために、競って公共建築や神殿を建設した。その結果、この時期にローマは急速に変貌した。前2世紀後半にはフォルム・ロマヌムの北に新たな市の中心地域としてカンプス・マルティウス地区の整備が進み、ポンペイウスはそこに大劇場を建設した。このポンペイウス劇場はローマ市内最初の劇場建築であった。
 前1世紀中ごろ、ローマの実権を掌握したカエサルはローマの総合都市計画法を制定し、フォルム・ロマヌムの整備の他、新たな公共施設としてカエサル広場、バシリカ・ユリアなどを計画したが、それらの完成前に暗殺された。その死後に完成したこれらの施設は壮麗なローマ建築を代表する建築群となった。

煉瓦から大理石へ 帝政期のローマ

 前27年に初代皇帝アウグストゥスが即位しローマ帝国の段階に入る。アウグストゥスは、カエサルの事業を継承しながら、最も信頼した部下のアグリッパの助力を得て、アウグストゥス広場などの新たな公共施設の建設、水道の整備、都市行政区画の整備(ローマを14区に分割)などを実施した。アウグストゥスは自らの業績を“私はローマを煉瓦の街として引き継ぎ、大理石の都として残すのだ”と述べた。その後歴代の皇帝は、自らの権威を誇示するため、また市民の「パンと見せ物」の要求の中の見世物のためのコロッセウムに代表される円形競技場や劇場、競馬場などの建設を競った。それは次第に帝国の財政を蝕むこととなった。

Episode ○○パレス、の起源

 アウグストゥスは皇帝に即位する前からローマのパラティヌス丘に邸宅をかまえていた。彼の後継者たちも丘の残りの土地を少しずつ買い占め、ドミティアヌス帝(在位81~96)までに大広間や庭園などを持つ広大な宮殿を築いた。こうしてパラティヌス丘は皇帝の住居となり、現代の宮殿を意味する「パレス palace 」という言葉が生まれた。<クリス・スカー/矢羽野薫訳『ローマ帝国<地図で読む世界の歴史>』1998 河出書房新社 p.42>
 現代の日本ではいたるところに○○パレスが見られる。

大火と再建

 皇帝ネロの時代、64年7月19日、ローマは大火に見舞われた。悪政を行っていたネロが自ら火を放ったという噂が立ったため、ネロはそれを打ち消すために当時ローマに目立ち始めたキリスト教徒にその罪を着せたが、大火になった原因はそれまでの人口の急増による無秩序な市街地の発展によって、高層住宅が密集していたことであった。
 その後の皇帝も一種の公共投資的な大規模な建築を行った。ウェスパシアヌスのときに建造が始まり、ティトゥスのとき完成したコロッセウム、五賢帝時代のトラヤヌス広場、ハドリアヌス帝が建造したパンテオン、さらにカラカラ帝による大公共浴場の建設など、枚挙にいとまがない。また、コンスタンティヌスのものに代表される凱旋門や、戦勝記念碑などが現在のローマにも多数残されている。

ローマの落日

 ローマ帝国は地中海をわれらの海として支配し、「ローマの平和」を謳歌した。その帝都としてローマは繁栄の絶頂期を迎えた。しかし、その統治範囲はローマだけで統治できるものではないことが次第に明らかになって行き、また元老院議員がローマ出身者で占められる時代もやがて終わり、各地の属州の出身者が皇帝になる時代を迎えた。ディオクレティアヌス帝はそのような状況に対応して帝国に四分統治制を導入したが、ローマは皇帝の居所とはならなかった。ローマ帝国の一都市に過ぎなくなり、しかも西の皇帝もガリア、ブリタニア、ヒスパニアといった地方を統治するために頻繁に各地を移動した。宮廷もミラノ(メディオラヌム)などに置かれることが多くなった。コンスタンティヌス330年に都をコンスタンティノープルに移したのはそのような流れの中でのことだった。こうしてローマは唯一の帝都としての地位を失い、相対的な衰退の時期を迎える。395年に東と分離した西ローマ帝国の都もミラノに置かれ、後にラヴェンナに移り、最後はそこで迎えた。

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(4)中世のローマ 政治都市から宗教都市へ

古代においてはローマ帝国の首都としての政治都市であったローマは、中世以降はローマ教皇の政庁である教皇庁の所在地という、宗教都市として存続することとなった。

 イエスの使徒の一人、ペテロが建てたローマ教会(聖ペテロ教会)は、キリスト教の五本山の一つであったが、ローマ帝国の国教化に伴い、特別な地位が与えられ、その司教はローマ教皇(法王)と言われるようになった。ローマ帝国の東西分裂によって、コンスタンティノープル教会と教会首座の地位を巡って争うようになり、ローマ教会はゲルマン人への布教を果たしながら、東方教会から分離し、西欧キリスト教世界の中心となった。

帝政末期のローマ

 東西分裂後の5世紀になると、西ローマはいわゆる蛮族によって脅かされる事態が続いた。まず、大移動を続けていた西ゴート人アラリック410年にローマに侵入し、3日間にわたって掠奪された。しかし彼らはローマにとどまらず西進して、南フランスからイベリア半島に入り、そこに西ゴート王国を立てた。
 西ゴート人に追われたヴァンダル人ガイセリックは、430年アフリカに入りヒッポでローマ軍を破って旧カルタゴの地にヴァンダル王国を立てた。451年に騎馬民族、フン人のアッティラ大王のガリアに侵入し、翌452年にはついにローマに侵入した。その時、ローマ教皇レオ1世は先頭に立ってアッティラを説得、それが功を奏してアッティラは撤退した。これでローマ教皇がローマを守ったという評価ができあがった。455年にはヴァンダル王国のガイセリックが再びローマを掠奪したが、この時もローマを占領することは無かった。

西ローマ帝国の滅亡とその後

 この間、西ローマ帝国ではゲルマン人やフン人の侵攻に対する防衛に当てるため、ゲルマン人を傭兵として依存するようになっていった。その結果、ゲルマン人傭兵部隊は政治にも介入するようになり、ついにゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって、476年に西ローマ帝国は滅ぼされることとなった。
 東ゴート人を率いたテオドリックは東ローマ帝国の要請を受けて北イタリアに入り、493年にオドアケルを暗殺してイタリアに東ゴート王国を建国し、都はラヴェンナに置いた。しかし、テオドリックはローマ文明に畏敬の念をもっていたので、ローマ文化を取り入れた統治を行った。しかしその信仰は異端とされたアリウス派を守ったので、ローマ教会とは対立した。テオドリックは526年に没し、東ゴート王国は535年から東ローマ帝国のユスティニアヌスの攻撃を受けるようになった。東ローマ軍は一旦ローマを奪回したが、546年に激しい反撃を受けて、その攻防戦でローマは破滅的な破壊を蒙った。この「ゴート戦争」は、555年東ゴート王国は滅亡し、ユスティニアヌスによるローマ支配された。しかし、この戦争でイタリアは荒廃し、東ローマ帝国の支配も長続きせず、568年に最後のゲルマン人の大移動とされるランゴバルド人のイタリア侵攻が始まり、イタリア半島は再びゲルマン人の支配下に入った。このランゴバルド王国はもはやローマ風の文化を尊重する姿勢は無く、この時期から、古代ローマの文化の破壊が進むこととなった。

宗教都市ローマ

 西ローマ帝国滅亡後はかつてのローマ帝国の都であった時代の繁栄は終わりを告げたが、中世にはいると文化と宗教の上で、ヨーロッパの中心としての役割をもった。ローマはキリスト教世界の中心である宗教都市としてよみがえったと言える。ローマはヨーロッパのキリスト教徒にとっての聖地とされ、多くの巡礼が訪れ、サンピエトロ聖堂を礼拝した。
 ローマ教皇の新たな保護者となったのが、ゲルマン人国家の中でも早くにアタナシウス派に改宗したフランク王国であった。クローヴィスの改宗以来、ゲルマン系民族の中では唯一アタナシウス派を信仰し、732年にはフランク王国の宮宰カール=マルテルトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム教軍を破ってそのヨーロッパ世界への侵入を阻止したことから、キリスト教世界の保護者の立場に立つようになった。その子ピピンは北イタリアのランゴバルト王国を破り、奪ったラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進したが、このピピンの寄進はローマ教皇領の始まりであり、これによってローマ教皇は荘園領主としての経済力をも有する存在となった。そして800年にフランク国王カール大帝がローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を与えられるという「カールの戴冠」によって、ローマ教皇は世俗権力の上に立つ大きな権威、権力を持つ存在となった。一方で8世紀にはローマ教会は聖像禁止令をめぐって東方教会=コンスタンティノープル教会と対立し、教会は東西分裂し、ローマ教会は西欧世界の中心的存在となっていく。
 こうして、ローマ教皇庁の所在地ローマは西ヨーロッパのキリスト教世界の中心地としての地位に立つことになった。962年、東フランク王オットー1世はローマ教皇によるローマ皇帝への戴冠をうけ、後に神聖ローマ皇帝の始まりとされる。神聖ローマ皇帝の実態はドイツ王であったが、ローマでの戴冠やイタリアの統治にこだわってイタリア政策に熱心であったので、ローマは依然としてキリスト教世界の中心と意識され続けた。ローマ教皇は叙任権闘争を世俗の権力である神聖ローマ皇帝と争い、ほぼ13世紀のインノケンティウス3世の時にその権力は最大となった。

都市ローマの衰退

 しかし、14世紀には教皇のバビロン捕囚によって教皇がローマを離れてアヴィニヨンに移ったり、大シスマという教会大分裂などで教皇権の衰退がはっきりしてくるに伴い、都市ローマの建物、街路も荒廃して衰えていった。ローマ教皇がローマに一本化されたルネサンス期には一時復興し、サン=ピエトロ大聖堂などが修築されたが、宗教改革が始まり、フランスと神聖ローマ帝国の間でイタリア戦争が起こると、その過程で1527年にカール5世によるローマの劫略によって破壊されて繁栄は失われ、それ以降は世界史の表舞台からはしばらく姿を消すこととなる。
 イタリアは、北部をオーストリアに支配され、ローマはそのままローマ教皇領の中心として存続、南にシチリア王国ナポリ王国が存在するという分裂の時代が続く。

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(5)近代のローマ イタリア統一とローマ

ナポレオンの支配からイタリア統一戦争を経て、1871年、イタリア王国の統一によってその首都となる。ムッソリーニ政権のもとでヴァチカン市国の成立を認め、ローマ問題を解決。第二次世界大戦によってイタリア王国は倒れ、戦後はイタリア共和国の首都となる。

ナポレオンのイタリア進出

 1796年ナポレオンイタリア遠征を行ったことは、北イタリアをオーストリアに支配され、他はローマ教皇領、ナポリ王国などに分かれているイタリアに、初めて民族的な自立と統一を求める運動が起きるという刺激を与えた。
ナポレオンとローマ 北イタリアは1798年からはナポレオンの支配下に入った。ローマ教皇は中立に固執していたが、ナポレオンは同年、軍隊をローマに派遣して、教皇に退位を迫り、ローマ共和国樹立を認めさせた。しかし、ナポレオンはフランスの実権を握ると、支配の安定のために、1801年にローマ教皇との宗教協約によって関係を修復し、1804年にはローマ教皇ピウス7世から、フランス帝国皇帝の帝冠を授けられて、ナポレオン1世となった。
 ナポレオン1世のヨーロッパ世界支配はカトリックの総本山、ローマを征服することによって完成される。翌1805年には自らイタリア王となり、さらにに1808年にはフランス兵をローマに派遣して占領し、翌1809年には教皇領をイタリア王国に併合した。かつてナポレオンに冠を授けたピウス7世はローマを追われ、フランスで虜囚のみとなった。その上で、ナポレオンはフランス帝国の第一の首都をパリとし、ローマをその第二の首都であるとして統治した。これはナポレオンが古代ローマに憧れ、シャルルマーニュを強く意識していたことの現れであり、その野望を実現したといえる。
 ナポレオンは自身でローマで統治に当たることはなかったが、古代ローマの遺跡を保存した上に近代的な都市の建築をめざし、建築家や美術家に都市の改造を検討させている。ナポレオンはオーストリア皇帝フランツ1世の娘マリー=テレーズと再婚し、其の間に生まれた男の子に1811年、ローマ王の称号を与えた。
ウィーン体制 ナポレオンの没落後、ウィーン会議で北イタリアではオーストリアの支配が復活し、ローマはローマ教皇領に復した。そのウィーン体制下で、イタリアにおいてもナポレオンによって植え付けられた、自由主義と民族主義の動きが、若い人びとの中に始まった。まず、1820年代にイタリアの統一と独立を求めるカルボナリの運動が始まり、ナポリやミラノで憲法の制定を実現するところまでいったが、メッテルニヒのオーストリアを後ろ盾にした守旧派によって弾圧されてしまった。
 1831年のイタリアの反乱も鎮圧されたが、その失敗の中からマッツィーニらが青年イタリアを結成、イタリア統一運動(リソルジメント)が始まる。
ローマ共和国 ウィーン体制を打倒する動きが最高潮に達した1848年革命では、ミラノやヴェネツィアで運動が鎮圧された翌年、1849年にローマでも自由主義の運動が高揚した。その中で教皇ピウス9世がローマを脱出したことでローマ市民は選挙を実施してローマ共和国の樹立を宣言、亡命中のマッツィーニを迎え、古代の共和制ローマにならった三頭政治の一角を彼に与えた。マッツィーニは議会で、今や、武器による「皇帝のローマ」、言葉による「教皇のローマ」に続き、第三のローマは「人民のローマ」である、と演説した。それに対してピウス9世はオーストリア、フランス、スペイン、両シチリア王国に対してローマに対する「十字軍」の派遣を要請、それに応える形で12月、ルイ=ナポレオンがフランス軍を派遣、ローマ共和国軍は抵抗したが敗れ、1年持たずに崩壊した。フランスが介入したのは、オーストリアに対する優位を築くことと、ローマ教皇を助けることで国内のカトリック教徒の支持をとりつけようというルイ=ナポレオンの思惑があったからである。

イタリア統一戦争

 イタリアの統一は、ローマではなく、トリノとサルデーニャを領していたサルデーニャ王国の首相カヴールを軸として進められることとなった。カヴールはクリミア戦争でフランスのナポレオン3世を支援た見返りとして、イタリア統一戦争に踏み切り、1861年イタリア王国の成立にこぎ着けた。しかし、ローマは依然としてローマ教皇領として残り、統一国家には編入されておらず、都はトリノに置かれた。

イタリア王国のローマ併合

 イタリア王国にとって、ローマの併合は大きな課題として残され、ローマ教皇はフランス軍の駐屯によって守られ、自治を求めるローマ市民の対立が続いた。1870年の普仏戦争が勃発、ローマ教皇を保護する名目でローマに駐屯していたフランス軍が撤退するという事態となり、ローマ併合の機会が訪れた。フランス軍は9月2日にセダンの戦いで敗れ、ナポレオン3世は捕虜となり、第二帝国は崩壊、早くも9月4日にフランス共和国が成立した。イタリア王国はフランスの敗北を見て、ただちに軍をローマに進撃させ、1870年9月20日にピーア門を守る教皇軍を破り、ローマに入場した。こうしてローマ教皇領占領が行われ、イタリア半島はすべてイタリア王国の支配下に入りイタリア統一(リソルジメント)は完了した。それをうけて、翌1871年7月、に古代ローマ帝国以来、ローマが統一イタリアの首都として復活した。

ローマ問題

 これによってローマ教皇領を完全に失い、ヴァチカンの教皇庁に閉じ込められたかたちのローマ教皇ピウス9世の「怒りはすさまじかった」。イタリア王国政府は教皇庁にさまざまな特権を保障することを提案したが、教皇庁は全面的に拒否、イタリア王国とローマ教皇庁は絶縁状態が続く。  ローマはイタリアの政治・経済の中心として現在に至っているが、市民とローマ教皇庁(ヴァチカン)の関係は必ずしも平穏ではなく、「ローマ問題」として継続していく。

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(6)現代のローマ 戦争とローマ

1871年にイタリア王国の都となったローマ。第一次世界大戦後、急速にファシズムが台頭し、1922年、ムッソリーニがローマ進軍によって独裁権力を握り、「ローマ問題」を解決してローマ教皇と和解。しかし第二次世界大戦ではドイツに占領される。

ファシズム下のローマ

 第一次世界大戦後、ファシスト党を結成したムッソリーニは、1922年ローマ進軍を行って国王から組閣の大権を与えられ、ファシズム体制をつくりあげた。ムッソリーニはカトリック勢力の抱き込みをはかり、1929年ラテラノ条約をローマ教皇庁との間で締結し、ローマの中心部にローマ教皇を君主とするヴァチカン市国の存在を認め、ローマ問題を解決した。この成功はムッソリーニの大衆的支持の一因となった。
ムッソリーニのローマ ムッソリーニは古代ローマ帝国の栄光を復活させようとした。現在、フォーリ・インペリアーリ(皇帝広場)通りと呼ばれているローマの大通りは、「純然たるファシズム時代の産物」であり、ムッソリーニの執務室からコロッセウムまでが一直線に見通せるように、中世の街並みを切り開いてつくったものだった。そして何よりも、この道は軍事パレードに欠かせない記念碑的な空間となった。」
 また、1937年9月23日から、アウグストゥス生誕2000年を記念する「モストラ・アウグステア・デッラ・ロマニタ」(ローマ理念のアウグストゥス記念展覧会)を開催し、4世紀始めのローマを模した250分の1の模型(それ自体が80平米ある)を展示した。展覧会の目的はローマ帝国の全体像を再現し観客にみせることだった。ヒトラーは翌年5月3日から9日までローマを訪問、この展覧会をおとずれ、ムッソリーニのローマ改造に刺激を受け、建築家アルベルト=シュペーアに「ゲルマニア」と名付けた新ベルリンの設計を命じた。このようにムッソリーニもヒトラーもローマ理念の後継者となろうとしたのだった。<クリストファー・ケリー/藤井崇訳『一冊でわかるローマ帝国』2010 岩波書店 p.168-171>

第二次世界大戦とローマ

 ムッソリーニのファシスト政権は、エチオピア併合など侵略を進める中でヒトラードイツと提携を強め、1936年にはベルリン=ローマ枢軸を成立させた。1939年、ヒトラーがポーランドに侵攻すると、ムッソリーニは当初は「非交戦国」を宣言したが、1940年にドイツ軍がフランスのパリを占領すると、便乗して世界戦争に参戦した。しかし、北アフリカ戦線などでイタリア軍は次々と敗北、国内ではムッソリーニ独裁に反発する勢力も強まっていった。
 1943年7月に連合軍がシチリアに上陸すると、ファシズム代表議会はムッソリーニの逮捕を決議、失脚させた。新たに成立したバドリオ内閣は、1943年9月8日に連合国に対して降伏、ドイツに宣戦布告した。しかしドイツ軍はイタリア政府が講和に踏み切る前に全軍をイタリアに展開し、ローマもドイツ軍に占領されてしまった。国王と政府要人はローマを脱出し、南部のプリンディシに逃れた。ドイツ軍は幽閉されていたムッソリーニを救出し、北部に連行し政権を作った(サロ共和国という)が、ムッソリーニは傀儡で実権はなかった。

無防備都市ローマ

 イタリア王国は連合軍に降伏し、ローマを無防備都市とすると宣言した。無防備都市とは軍隊及び軍事施設を置かないことを宣言することによって攻撃を回避しようという国際法上認められている宣言であるが、ローマには事実上ドイツ軍が進駐したので、無防備都市宣言は無視され、連合軍は数回に渡りローマを爆撃している。またローマ市内のヴァチカン市国は戦争に加わらず中立を宣言していたが、空襲の被害を受けている。
 ドイツ軍占領下のローマを描いたのが、1945年に発表され、イタリア映画の傑作とされるロベルト=ロッセリーニの『無防備都市』Roma città aperta である。占領下のローマ市民の生活と、ドイツ軍に対するレジスタンスが淡々と描かれている。第1部と第2部の二部作で、第1部ではアンナ=マニャーニ演じる戦時下に子供を育てながらけなげに生きる女ピノを追う。再婚相手との結婚式を明日に控え、その相手がゲシュタポに捕らえられてしまう。絶叫してトラックを追うピノ。第一部は思わず息をのむ名シーンで終わる。第2部はドイツ軍ゲシュタポの将校とレジスタンスの闘士の駆け引きがじっくりと描かれる。闘士の愛人がゲシュタポの罠にはまって裏切ってしまい、残忍な拷問が行われる。バドリオに協力している軍人の名前をいえ、というのだ。はたして彼は拷問に耐えられるか・・・。そして第一部と第二部に共通するいわば主役がピエトロ神父と子どもたちだ。カトリック神父でありながら抵抗運動に加わっているのも、子どもたちがこっそりとドイツ軍に対する破壊工作をするのも驚きだが、それがレジスタンスの実態だったのだろう。ロッセリーニの戦争三部作、『無防備都市』、『戦火のかなた』、『ドイツ零年』はいずれも安価なDVDで販売されているので、ぜひ見てほしい。

ローマの解放

 ローマは1944年6月に連合軍によって解放され、レジスタンスに加わった各派が結集してバドリオ内閣を否認、連立内閣を樹立し、戦後イタリア復興が開始された。ムッソリーニは1945年4月、パルチザンに捕らえられ、ミラノで逆さ吊りにされて殺された。5月にはベルリンが陥落してナチス=ドイツも崩壊した。 → イタリア
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書籍案内

モンタネッリ/藤沢道郎訳
『ローマの歴史』
中公文庫

弓削達
『地中海世界』新書西洋史②
1973 講談社現代新書

青柳正規『ローマ帝国』
2004 岩波ジュニア新書

青柳正規
『皇帝たちの都ローマ』
1992 中公新書

クリス・スカー/
吉村忠典監修/矢羽野薫訳
『ローマ帝国
地図で読む世界の歴史』
1998 河出書房新社

フィリップ・マディザック/安原和見訳
『古代ローマ旅行ガイド――1日5デナリで行く』
2018 ちくま学芸文庫

古代ローマを旅するためのガイドブックというしかけだが、きわめて真面目に古代ローマを案内しくれる。読み物としてだけでなく、ローマ史の勉強にもなりそうだ。

DVD案内

ロベルト=ロッセリーニ監督
『無防備都市』
1945 108分