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スパルタ

古代ギリシアのポリスでアテネと対抗した有力国。少数の市民が多数の奴隷(ヘイロータイ)と半自由民(ペリオイコイ)を支配するため厳しい軍国主義体制をとった。前6世紀までにギリシア本土南部の覇権を握り、ペロポネソス同盟の盟主となった。ペルシア戦争ではアテネと共同で戦ったが、その後ギリシア全土の覇権を巡り両者は対立し、ペロポネソス戦争となり、その勝者となって前5世紀末に全盛期を迎えたが、前4世紀前半には衰退しテーベに覇権を奪われた。

 紀元前12世紀にピンドス山あたりから移動して南下したドーリア人は、他のギリシア諸種族の移動を誘発しながらペロポネソス半島一帯を占拠し、先住ギリシア人と共存しながら定着した。ドーリア人の一派のスパルタ人(スパルティアタイ。自らはラケダイモンといった)は、エウロタス河畔に居を定め、自らを強固な支配身分の共同体として結合し、他の従属的な諸身分を抑える戦士団の共同体をつくった。スパルタ人が支配する従属民には、ヘイロータイという奴隷身分とペリオイコイとよばれる半自由民があった。

スパルタの軍国主義

 スパルタの市民はポリス内部では少数の支配層であり、いっさいの生産労働から解放され政治と軍事に専念する戦士団であった。かれらは重装歩兵として武器を独占してペリオイコイ、ヘイロータイを支配したが、数の上では少数であり、また時々ヘイロータイの反乱に悩まされていたので、その軍事力を維持し強めるために、厳しい軍国主義を採用し、子供(スパルタにおいては市民の女子も戦士として同様に扱われた)たちを厳しく育てる「スパルタ教育」が行われていた。また、強力な陸軍をもっていたので、「城壁は人なり」という考えから、他のポリスのような城壁を築かなかった。対外政策では、鎖国政策をとった。以上のようなスパルタの国制は、前9世紀末のリュクルゴスの改革によるとされているが、リュクルゴスは伝承上の人物とされることも多い。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.80~などによる>
※スパルタのヘイロータイが、征服された先住民であるという説は、現在では否定的に見られている。

ペロポネソス同盟

 「リュクルゴスの制」とも言われるスパルタの軍国主義体制は、前6世紀ごろまでには確固たる体制となった。国内の体制を固める一方、アルゴスやアルカディアといったペロポネソス半島内の対抗勢力と争い、前6世紀半ばまでには半島内部での覇権を握ることとなった。スパルタは強力な軍事力を背景に、半島北部のアカイア地方と仇敵アルゴスをのぞくペロポネソス半島の諸ポリスとのあいだで次々と攻守同盟を結んだ。前6世紀末までにはこのペロポネソス同盟を完成させた。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』2004 講談社学術文庫 p.158>

アテネとの比較

 スパルタはアテネと並ぶ古代ギリシアの代表的ポリスであるが、アテネとは似ている性格と同時に異なる特色も認められる。 → アテネ民主政
  • アテネとスパルタは、ともにポリスとしては例外的に広い領域を支配していた二大国であった。
  • いずれもギリシア人のポリスであるがアテネはイオニア人の集住活動によって成立し、スパルタはドーリア人の征服活動で形成された。
  • アテネとスパルタはいずれも奴隷制を基盤とし、重装歩兵として防衛にあたる市民(成人男性のみ)が市政に参加し、民会を開催する民主政がとられた。
  • アテネでは民主政が典型的に発展し、下層民にも発言権がひろがったが、スパルタは少数の支配層が権力を維持し、民主政は徹底しなかった。
  • スパルタでは、奴隷身分であるヘイロータイ、半自由人であるペリオイコイに対する厳格な差別がおこなわれた。
  • スパルタは徹底した鎖国政策をとったため、他国との文化的交流が少なく、アテネのような文化(学問、芸術)は育たなかった。
  • 両国とも同じく軍事大国であったが、アテネが海軍主体であったのに対してスパルタは陸軍が強大だった。
  • スパルタは前6世紀にペロポネソス同盟を結成、アテネはペルシア戦争後の前5世紀前半にデロス同盟を結成、両陣営は前5世紀後半にペロポネソス戦争を展開した。

ペルシア戦争でのスパルタ

 ペルシア戦争(前500~前449年)ではアテネなど他のポリスと同調してアケメネス朝ペルシア帝国のペルシア軍と戦った。特にテルモピュライの戦いではレオニダス王の率いる少数のスパルタ陸軍が奮戦したが、国王も戦死してペルシア軍に敗れてしまった。その後は、サラミスの海戦でペルシア海軍を破ったアテネが、海軍力を背景にしてギリシアのポリス国際社会の主導権を握った。サラミス海戦の翌年の前479年、ギリシア北方にとどまっていたペルシア陸軍がアッティカ地方に侵攻すると、スパルタの将軍パエサニアスはプラタイアの戦いでそれを撃退し、ギリシア連合軍の勝利を確定的にした。
パウサニアスの失脚 パエサニアスはプラタイアの戦いを勝利に導いた英雄であったが、前478年にはギリシアの連合艦隊を指揮してキプロス島に遠征してペルシア海軍を駆逐し、さらにビザンティオンを奪回した。しかし、かれの尊大な態度は他のギリシア諸都市の反発を招き、その責任を問われてスパルタ本国に召還されてしまった。さらにスパルタでは、パウサニアスがギリシアに内通しているという嫌疑がかけられ、失脚した。性的に追われたパウサニアスは神殿に逃れたが、そこで餓死したという。

アテネとの抗争

 ペルシア戦争はスパルタとアテネの協力によってギリシアのポリス連合軍の勝利となったが、サラミスの海戦でのアテネ海軍の勝利を転機にアテネ海軍の優位が明らかになり、特にアテネがペルシア軍の再襲来に備えてエーゲ海域の諸ポリスとの間でデロス同盟を結成すると、両者の関係は次第に冷却化していった。
 スパルタは前6世紀にすでにペロポネソス半島のほぼすべてのポリスとペロポネソス同盟を結成し、その盟主となっていたが、アテネがデロス同盟を結成し、さらに前454年には同盟の金庫をデロス島からアテネに移して同盟支配を強めると、スパルタとアテネの関係は悪化した。そのころアテネにはペリクレスが民主政の完成に向けた改革を実行し、同時にデロス同盟に対する支配を強化し、「アテネ帝国」とさえ言われる覇権を築きつつあった。

ペロポネソス戦争

 前431年、スパルタ王アルキダモスの率いるペロポネソス同盟軍は、アテネの本拠であるアッティカに侵入し、ペロポネソス戦争が始まった。アテネの防衛に当たったペリクリスは籠城作戦を採り、守りを固めたが疫病が大流行してペリクレス自身が死去し、アテネは危機に陥りながら持ちこたえていた。
 両国は戦争に疲れ、前421年には一時的な講和が成立(ニキアスの平和)したが、アテネの主戦派アルキビアデスが主導権を握ると海軍力に依存してシチリア島に進出し、スパルタを包囲しようとして戦争を再開した。しかしこの無謀な作戦は失敗し、一方のスパルタは、ペルシア帝国の援助を受けて海軍の編成に着手、形勢を好転させた。スパルタはペロポネソス同盟軍を動員して次第に優勢となり、前404年ついにアテネを破り、スパルタの覇権が成立して戦争が終わった。
 この27年間をついやした戦争は、スパルタとアテネというギリシアの二大ポリスが、それぞれペロポネソス同盟とデロス同盟の二大陣営を率いて対決し、一進一退をくりかえしながら長期化して前5世紀末にはギリシアでのスパルタの覇権を成立させておわったが、その間のギリシアの国土の荒廃とともに、ペルシア帝国の介入の口実を与え、ポリス民主政に支えられたギリシア文明の繁栄を終わらせる(すぐにではないが)契機となった。

コリント戦争とスパルタの衰退

 スパルタはペロポネソス戦争でアテネに勝利したが、その背後にはペルシア帝国(アケメネス朝)からの資金援助を受けていたことがある。この勝利によってスパルタはギリシアの覇権を握ったが、そうなるとギリシアに統一政権が生まれることを恐れたペルシア帝国は、一転してアテネテーベコリントなどに資金を援助するようになり、スパルタとのコリント戦争(前395~387)を起こさせた。この戦争は決着がつかず、ペルシア帝国の大王の仲介で和睦した(「大王の和約」)。その後、ギリシアではテーベが台頭、スパルタは前371年に敗れて衰退する。

コリントス同盟とスパルタ

 カイロネイアの戦いでアテネ・テーベのポリス連合軍を破ったマケドニアフィリッポス2世は、ギリシア諸国との間でコリントス同盟を締結し、実質的な党政権を得た。しかし、スパルタのみは同盟に参加を拒否した。その理由は、同盟がかつてスパルタの支配下にあったメッセニア人の独立を承認したこと、フィリッポス2世がスパルタの抱える国境紛争でスパルタに不利な裁定をしたことであった。いずれにせよ、衰えたりと雖も最強の陸軍国である自負の伝統は生きており、マケドニア(ギリシア人から見れば北方の野蛮な人々であった)の支配に服することを潔しとせず「光栄ある孤立」の道を選んだということである。コリントス同盟の盟主がアレクサンドロスに替わっても同様であり、スパルタにとってはアレクサンドロスが東方遠征に向かったことは、チャンスであった。
アギスの蜂起 前331年夏、スパルタ王アギスは、ペルシアの支援を受けて反マケドニアの挙兵に踏み切った。兵力は歩兵2万、騎兵2千に達し、中にはイッソスの戦いの戦場から逃れたギリシア人傭兵8千が含まれていた(ギリシア人傭兵はマケドニア軍から冷遇され、不満があった)。アレクサンドロスがギリシア防衛のために残しておいた代理統治者アンティパトロスは歩兵1万2千、騎兵1500にすぎず不利であったが、海上ではマケドニア海軍が帰順したフェニキアとキプロスの艦隊を加えて圧倒的に優勢だった。最大の焦点はアテネが反乱に参加するかどうかであったが、アテネはついにアギスの誘いに乗らなかった。前330年、マケドニア・ギリシア連合軍4万がペロポネソス半島中部のメガロポリスでスパルタ軍と対決、スパルタ側の5300が戦死、アギス自身も最期を遂げて反乱は終息した。アレクサンドロスはフェニキアのマラトスに留まり直接指揮せず、海軍を派遣し、戦費を送っただけであったが反乱が鎮圧されたことで東方遠征を継続できた。この反乱はアレクサンドロスのギリシア人に対する不信感を強めたと思われる。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.138>

Episode スパルタの「ここまでやるか!?」

 スパルタは軍国主義を地で行ったポリスとして有名である。そのために国民生活のうえで、今では考えられないさまざまな規制や習慣が行われていた。こんなことまで!?という感じの話がいくつかあるので、アイリアノスの『ギリシア奇談集』から拾い出してみよう。
  • 散歩禁止令 スパルタ人が時間を惜しむことは非常なものがあった。どんな場合でも彼らは一番大事な事柄に時間を振り向け、寛いだり怠けたりして時を費やすことはいかなる市民にも許されなかった。ペロポネソス戦争の最中の前413年、アテネ軍の拠点であったデケレイアというところを占領したスパルタ軍の兵士が、午後の散歩をしているとの知らせを受けたスパルタ本国の監督官たちは「散歩をしてはならぬ」という手紙を送った。スパルタ人たるもの散歩によってではなく、鍛錬によって健康を維持すべきである、というわけである。<p.56>
  • スパルタの母 スパルタの母親たちは、わが子が戦死したと聞くと、皆その場に行って遺体の前と後に受けた傷を綿密に調べる。向こう傷の方が多いと母親たちは足どりも誇らしげに、しかも荘重で凜然たる表情を示しながら、わが子の遺体を先祖代々の墓所へ運んだ。傷がそれとは逆である場合には、母親たちは恥じ悲しんで、できるだけ人目を避けようとしながら、遺体は共同墓地に葬られるようにその場に残したまま立ち去るか、あるいは密かにわが家の墓地へ運んだ。<p.320>
  • 肥満は敵 スパルタの法律では、色白の肌と肥満は禁じられていた。それは体育による鍛錬を怠った男子の証拠とされたからである。この法律には付加条項があって、成人男子は必ず10日に一度、衆人環視の中で、監督官の前に裸をさらさなければならず、鍛練のあとがみられる頑丈な体であれば表彰され、怠惰のため脂肪がついて多少ともふくれあがっていたり、四肢のどこかに弛緩した軟弱な部分があった場合には、鞭で打たれて処罰される。<p.407>
  • 貪欲も禁止 スパルタの青年がきわめて安い値段で土地を購入したが、役所に呼ばれて処罰された。有罪となった理由は、若輩の身でありながら金儲けに腐心したからというのである。スパルタ人がもっとも男らしいことと考えたのは、戦場で敵に対するばかりでなく、金銭に対しても(勇敢に)立ち向かうことであった。<p.435>

Episode スパルタの同性愛

 厳しい軍国主義が採られたスパルタでは、同性愛には寛容で、むしろ奨励されていた。スパルタの軍隊組織の中から同性愛が発生したとも言われている。戦場においては愛することを知っている者は勇敢に立ち向かうが、愛を知らぬ者は勇敢にはなり得ないと考えられたからのようだ。同性愛とは、恋をする方(念者)が、恋をされる若者(稚児)の肉体にではなく魂に恋するのであり、その魂を徳へと導くこととされた。「愛していればきっとその青年を――いや、さらに他の青年をも自分と同じく立派な人間にできたであろう」というように、同性愛には教育的効果があると考えられていた。そのため、スパルタにはこのような法律があった。
(引用)若者(稚児)が過ちを犯した時には、監督官は単純な性向や若年であることを斟酌して当人は罰せず、かわりにその若者の念者を罰した。念者は稚児の行動の是非を判定したり審査すべきものである、との趣旨である。<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.109>
 アイリアノスはまた、スパルタ人の同性愛についてこんな風に伝えている。
(引用)スパルタの美青年たちは念者に対してふてくされたり生意気な態度をとったりしない。それは、美青年同士の時とは違って、念者からいろいろなことを学べるからである。彼らは念者に対して自分たちに「エイスプネイン」してもらいたいと望むのだが、スパルタではこの言葉は「愛する」という意味になる。また、スパルタ人の愛は醜行とは無縁である。・・・<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.109>
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ノートの参照
1章2節 オ.アテネとスパルタ
書籍案内

太田秀通
『スパルタとアテネ
―古典古代のポリス社会』
1970 岩波新書

伊藤貞夫
『古代ギリシアの歴史』
2004 講談社学術文庫

アイリアノス
松平千秋・中務哲郎訳
『ギリシア奇談集』
1989 岩波文庫