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シラクサ

シチリア島の南部にある古代都市。ギリシア人の植民都市として建設され、前5~4世紀にはカルタゴに対抗し地中海貿易で活躍したが、前211年ローマに征服されその属州となった。

 シラクサはイタリア南部のシチリア島東岸にギリシア人の植民市として建設された都市で、ギリシア名をシュラクサイという。今も前5世紀に建設された、大規模な円形劇場など、ギリシア風の遺跡か多く残っており、ペルシア戦争などではギリシアの一部として歴史に登場する。またプラトンやアルキメデスが活動した地としても知られる。前5世紀前半にはゲロンとヒエロンの兄弟、前4世紀後半にはディオニュシオス1世という僭主が治めた。その後も地中海の中心に位置する港市として繁栄したが、前211年にはローマに破れ、その属州となった。その後も、ローマ帝国、ビザンツ帝国、イスラーム勢力、ノルマン人などの支配を受けながら、独自の文化を形成した。

ギリシア人の植民市として始まる

 シラクサを建設したのはギリシアのコリントであった。前733年のこととされている。前5世紀の初め頃、ゲロンとヒエロンという兄弟の僭主が現れ、フェニキア人の植民市カルタゴと争った。ペルシア戦争中の前480年のサラミスの海戦と同じ時に、シラクサはカルタゴ海軍と戦って、ヒメラの戦いに勝利している。さらに前474年にはイタリア半島を南下してきたエトルリアとのクマエの戦いで勝ち、東地中海の商業圏を支配して繁栄した。

ペロポネソス戦争

 ペルシア戦争後、アテネはデロス同盟の盟主としてギリシアの覇権を握り、海上帝国として地中海にもその勢力を及ぼしていった。アテネの干渉に反発したシラクサはスパルタと同盟するようになった。アテネとスパルタとの間でペロポネソス戦争が起こると、本土でのスパルタ軍との戦いで劣勢に陥ったアテネは、海軍を派遣してシラクサ攻撃をはかり、起死回生をはかった。しかし、前413年に行われたアテネ海軍のシチリア遠征は、シラクサ・スパルタ連合軍に敗れ、アテネの勢力後退を決定的になった。

Episode シラクサの月蝕

 アテナイの遠征軍に対してシラクサはスパルタ海軍の応援を得て反撃に出ようとした。劣勢に陥ったアテネ海軍は危機を脱するためシラクサ軍の態勢が整う前に撤退を決定しその準備に入った、ところがいざ撤退となった前413年8月27日の夜、予想しなかった事態が起こった。
(引用)・・・指揮官たちは、あたう限り機密を保持しながら全軍にあらかじめ通牒を発し、陣地から出航するから、命令があり次第ただちに行動に移れるように準備を完了しておくように、と伝えた。やがてその準備がととのい、今にも船出という瞬間に為って、月蝕が起こった。偶々、これは満月の夜であったからである。するとアテーナイ勢の過半の兵士らはみなこれを気に病んで、指揮官たちに出航中止を要請し、またニーキアース(総司令官)自身も(かれは神託予言などの類をやや偏重しすぎる性質であった)、予言者たちがこの兆を解いて言っているように、二十七日間の日数が経過するまでは、その先いかなる行動を取るべきかについて協議することも、謹みたい、と言った。そして月蝕のために遅延をきたしたアテーナイ勢は、なおも逗留を長びかせることになってしまったのでる。<トゥーキュディデース/久保正彰訳『戦史』下 岩波文庫 p.198>
 アテネ軍が撤退のチャンスを逸したのにたいし、態勢を整えたシラクサ軍は陸上ではアテネ軍の基地を襲い、海上ではアテネ海軍を封鎖して動きを封じ、大勝利をしめることができた。アテネはシチリア遠征の失敗によってギリシアの覇権を失うことになった。

僭主ディオニュシオス1世とプラトン

 また前4世紀のはじめ、ディオニュシオス1世が僭主政治を行い、3次にわたってカルタゴと戦った。このころプラトンも一時シラクサに滞在、その政治に関与し、理想国家の建設を目指したが、僭主とは意見が対立しアテネに戻った。次のディオニュシオス2世も、二度にわたりプラトンを招聘したが、何の成果もなくアテネに帰った。

Episode 『走れメロス』の舞台

 太宰治の短編小説『走れメロス』の舞台となったのが、僭主ディオニュシオス1世の時のシラクサである。小説ではシラクスという国の暴君ディオニスとして出てくる。メロスが激怒し、「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」、あの暴君である。「王を除かねばならぬ」というメロスの決意は、22歳頃の昭和6年に反帝国主義学生同盟に加わって非合法活動を経験した頃の太宰自身が投影されているのではないだろうか。発表されたのは日中戦争最中の昭和15年(1940年)だから、不敬思想で大問題になりかねない表現だが、この作品では暴君はメロスを許し、大団円させたことも、運動に挫折し転向した太宰の過去が投影していると見られないこともない。

カルタゴとの抗争

 イタリア中部の都市国家ローマは前3世紀中頃までにイタリア半島の統一を進め、さらに地中海貿易にも進出すると、カルタゴとの利害の対立が激しくなった。ローマは、シラクサがカルタゴとの争いからローマに救援を要請したことを好機として捉え、前264年にカルタゴとの戦いに踏みきり、ポエニ戦争が始まった。

ローマの支配

 第1回ポエニ戦争の後、シラクサはローマに反旗を翻したため、第2回ポエニ戦争の最中の前211年にローマに攻撃され滅亡した。そのとき、シラクサで活躍していたアルキメデスも戦死した。その後は属州シチリアの州都としてローマの支配を受ける。

ビザンツ、イスラーム、ノルマンの支配が交替

 ローマ帝国が分裂した後、6世紀に地中海支配を回復した東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の支配が及び、その後北イタリアにゲルマン人諸国、ローマ周辺はローマ教皇領となったが、南イタリア・シチリア島はビザンツ帝国の支配が続いた。
 ところが8世紀以降、イスラーム勢力の侵入が始まり、9世紀にはチュニジアのアグラブ朝によるシチリア島侵攻が開始され、878年にシラクサも陥落、イスラームの支配を受けることとなった。
 南イタリアやシチリアのキリスト教徒は、ノルマン人に撃退を依頼、その結果ノルマン人がこの地に進出して両シチリア王国を建国、ノルマン朝の支配を受けることとなった。ついで両シチリア王国の王位はハプスブルク家のドイツ王が継承することとなった。
 このように、シラクサにはギリシア、カルタゴ、ノルマン、イスラームの文化が相次いで交替した。シラクサは現在は小さな町になってしまい、かつての繁栄の跡は見られないが、その西にあるアグリジェント(ギリシア時代のアグリゲントゥム)にはギリシア建築の神殿が残っている。

Episode 和辻哲郎のシラクサ訪問

 1928(昭和3)年にシラクサを尋ねた和辻哲郎はその著『イタリア古寺巡礼』でアグリジェントのギリシア時代の神殿を見てこんな感想を記している。
(引用)これらのギリシア建築を見て、まず第一に受けた印象は、その粛然とした感じである。この感じだけは、後の時代のどんな美しい建築にもないように思う。しんとしていて、そうして底力がある。これはおそらく他の時代の建築に見られないあの「単純さ」に起因するのかも知れない。・・・<和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』岩波文庫 p.144>
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ノートの参照
1章2節 ウ.ポリスの成立と発展
書籍案内

トゥーキュディデース
/久保正彰訳
『戦史』下
1967 岩波文庫

太宰治
『走れメロス』
新潮文庫

和辻哲郎
『イタリア古寺巡礼』
岩波文庫