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シラクサ

ギリシア人の植民都市で、シチリア島の南部にある古代都市。

 シラクサはイタリア南部のシチリア島東岸にギリシア人の植民市として建設された都市で、ギリシア名をシュラクサイという。ペルシア戦争などではギリシアの一部として歴史に登場する。またプラトンやアルキメデスが活動した地としても知られる。その後、地中海の中心に位置する港市として繁栄しながら、ローマ帝国、ビザンツ帝国、イスラーム勢力、ノルマン人などの支配を受け、独自の文化を形成した。

ギリシア人の植民市として始まる

 シラクサを建設したのはギリシアのコリントであった。前733年のこととされている。前5世紀の初め頃、ゲロンとヒエロンという兄弟の僭主が現れ、フェニキア人の植民市カルタゴと争った。ペルシア戦争中の前480年のサラミスの海戦と同じ時に、シラクサはカルタゴ海軍と戦って、ヒメラの戦いに勝利している。さらに前474年にはイタリア半島を南下してきたエトルリアとのクマエの戦いで勝ち、東地中海の商業圏を支配して繁栄した。ペロポネソス戦争ではスパルタと同盟してアテネと対立し、前413年にその遠征軍を破り、アテネの勢力後退を決定的にした。

カルタゴとの抗争

 また前4世紀のはじめ、ディオニュシオス1世が僭主政治を行い、3次にわたってカルタゴと戦った。このころプラトンも一時シラクサに滞在、その政治に関与し、理想国家の建設を目指した。しかしカルタゴの勢力が及ぶとローマに救援を要請、そこからカルタゴとローマの間にポエニ戦争が始まる。第1回ポエニ戦争の後、シラクサはローマに反旗を翻したため、第2回ポエニ戦争の最中の前211年にローマに攻撃され滅亡した。そのとき、シラクサで活躍していたアルキメデスも戦死した。その後は属州シチリアの一部としてローマの支配を受ける。

ビザンツ、イスラーム、ノルマンの支配が交替

 ローマ帝国が分裂した後、6世紀に地中海支配を回復した東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の支配が及び、その後北イタリアにゲルマン人諸国、ローマ周辺はローマ教皇領となったが、南イタリア・シチリア島はビザンツ帝国の支配が続いた。 ところが8世紀以降、イスラーム勢力の侵入が始まり、9世紀にはチュニジアのアグラブ朝によるシチリア島侵攻が開始され、878年にシラクサも陥落、イスラームの支配を受けることとなった。
南イタリアやシチリアのキリスト教徒は、ノルマン人に撃退を依頼、その結果ノルマン人がこの地に進出して両シチリア王国を建国、ノルマン朝の支配を受けることとなった。ついで両シチリア王国の王位はハプスブルク家のドイツ王が継承することとなった。このように、シラクサにはギリシア、カルタゴ、ノルマン、イスラームの文化が相次いで交替した。シラクサは現在は小さな町になってしまい、かつての繁栄の跡は見られず、ギリシア時代の建築も残っていないが、その西にあるアグリジェント(ギリシア時代のアグリゲントゥム)にはギリシア建築の神殿が残っている。

Episode 『走れメロス』の舞台

 太宰治の短編小説『走れメロス』の舞台となったのが、僭主ディオニュシオス1世の時のシラクサである。小説ではシラクスという国の暴君ディオニスとして出てくる。メロスが激怒し、「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」、あの暴君である。「王を除かねばならぬ」というメロスの決意は、22歳頃の昭和6年に反帝国主義学生同盟に加わって非合法活動を経験した頃の太宰自身が投影されているのではないだろうか。発表されたのは日中戦争最中の昭和15年(1940年)だから、不敬思想で大問題になりかねない表現だが、この作品では暴君はメロスを許し、大団円させたことも、運動に挫折し転向した太宰の過去が投影していると見られないこともない。

Episode 和辻哲郎のシラクサ訪問

 1928(昭和3)年にシラクサを尋ねた和辻哲郎はその著『イタリア古寺巡礼』でアグリジェントのギリシア時代の神殿を見てこんな感想を記している。
(引用)これらのギリシア建築を見て、まず第一に受けた印象は、その粛然とした感じである。この感じだけは、後の時代のどんな美しい建築にもないように思う。しんとしていて、そうして底力がある。これはおそらく他の時代の建築に見られないあの「単純さ」に起因するのかも知れない。・・・<和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』岩波文庫 p.144>
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1章2節 ウ.ポリスの成立と発展