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エトルリア/エトルリア人

エトルリア地図
紀元前8世紀のイタリア半島

前8~6世紀、イタリア中部を支配した系統不明の民族。鉄器を使用し、独自の文化を発達させ、一時ローマも支配した。前3世紀にはローマに敗れ、イタリアに吸収された。

 ラテン語ではエトルスキという。イタリア半島の中部、ティベル川北部一帯の地名をエトルリアといい、そこにかつて居住していた人々をエトルリア人(エトルスキ人)という。彼らは系統は不明であるが、インド=ヨーロッパ語系ではないと考えられている。ヘロドトスは小アジアのリディアから移住したという説をあげているが、現在では否定され、イタリア半島の先住民族の一つとされている。

ギリシア人との交易

 戦後になって考古学調査が進められた結果、前9世紀ごろ、イタリア中部のエトルリア地方で鉄器文化が始まった(ヴィッラノーヴァ文化)ことが明らかになってきた。この鉄器の原料は、対岸の地中海上のエルバ島で産出したものであった。前8世紀ごろには鉄以外に銅、銀、錫などの金属器が使用され高度な加工技術が発達した。このころからギリシア人が交易のためにエトルリアを訪れるようになり、彼らはイタリア半島南部にネアポリス(現在のナポリ)などの植民市を築いていった。ギリシア人はエトルスキ人からギリシアでは産出しない青銅の原料の錫を手にいれるなど、盛んに交易をおこなったが、それとともにギリシアから麦やオリーブ・葡萄などの農作物栽培技術が伝えられた。

ローマで王政をしく

 エトルリア人は前7世紀末ごろからイタリア中部の現在のトスカナ地方に12の都市国家を建設し、前6世紀まで繁栄したが、統一国家をつくることはなかった。しかし、その勢力を次第に南北に広げてゆき、南はカンパニア地方、北はポー川流域まで及んだ(右図参照)。
 前616年にはエトルリア人のタルクィニウスがティベル川河畔の都市国家ローマに移住して王に選ばれ、王政を行った。その支配は一時ほぼイタリア半島中部全土に及んだ。しかし、前509年にローマからエトルリア人の王が追放されて、ローマとの戦いに敗れてから次第に衰退し、その後もたびたびローマとの戦いに敗北し、前264年までにほぼ征服されてしまった。その後は、長い経過のなかでイタリア人との人種の混淆、ラテン文化への同化が進み、エトルスキ文化は全く忘れられてしまった。

エトルリア文明

 エトルリア人の文明はローマ文明が栄える前のイタリア半島で開花した。18世紀になって、彼らの残した大量の美しい絵のある壺や金属器、多彩な壁画を持つ墳墓が次々と発掘され、にわかに注目を集めるようになった。彼らはギリシア文字を用い、遺跡からも史料が多数見つかったが、それはギリシア文字の音だけを借りて彼らの言葉を書き記したものであるらしく、その言語はインドヨーロッパ語系ではないらしく、意味は分からなかった。こうして考古学的な資料はたくさんあるのに、どこから来て、どんな社会を作っていたのかが判らないために、「謎の文明」と言われたのだった。
エトルリアの壺
エトルリアの壺
ヴルチ出土のボクシングの場面を描くアンフォラ(ぶどう酒入れ) 知の再発見双書『エトルリア文明』p.92(創元社)
 現在判ってきたことは、「エトルリアの壺」と言われる多数の壺は、どうやらギリシアからの輸入品であったらく、ギリシア文字の使用とともにギリシア文化の強い影響を受けていることである。なお、ローマの北方にあるタルクィニアの町にはエトルリア時代の貴族の墳墓の地下墓室が多数残されており、楽しく歌舞音曲を楽しむ姿とともに、恐ろしい冥界思われる絵などが残されている。彼らはまた、鳥占いや肝臓占い(動物の肝臓を取り出して吉凶を占う)などを行っていたが、これはアジアに源流があると考えられている。<ジャン・ポール・テュイリエ『エトルリア文明』1994 知の再発見双書37 創元社刊 など>
エトルリア人の言語 エトルリア人の使用した言語は、長く不明とされていたが、用いられていた文字がギリシア文字と同系列であることが判り、現在ではほぼ解読がされている。エトルリア語は「謎の言語」ではなくなりつつある。わかってきたことは、エトルリア語は、本質的にはギリシアのアルファベットで書かれていることで、このアルファベットは「西ギリシア型」とよばれるもので、イタリア半島中部のギリシア植民市キュメから伝わったと考えられている。残されたエトルリア語碑文のアルファベットは、右から左へと読むように書かれ、O(オー)を用いず、UがOを兼ね、また有声子音b、d、gもないなどの特徴がある。<『同上書』p.154>
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ノートの参照
1章3節 ア.ローマ共和政
書籍案内

ジャン・ポール・テュイリエ/松田迪子訳
『エトルリア文明』
知の再発見双書37
1994 創元社刊