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エトルリア人

前7~6世紀、イタリア中部を支配した系統不明の民族。一時ローマも支配した。

エトルリアの壺
エトルリアの壺
ヴルチ出土のボクシングの場面を描くアンフォラ(ぶどう酒入れ) 知の再発見双書『エトルリア文明』p.92(創元社)
 ラテン語ではエトルスキという。エトルリア人は系統は不明でインド=ヨーロッパ語系ではないとされている。ヘロドトスは小アジアのリディアから移住したという説をあげているが、現在では否定され、イタリア半島の先住民族の一つと考えられている。彼らは鉄器を使用していたが、原料の鉄の産地が地中海上のエルバ島であった。
 エトルリア人は前7世紀からイタリア中部の現在のトスカナ地方に12の都市国家を建設し、前6世紀まで繁栄したが、統一国家をつくることはなかった。前6世紀末には、エトルリア人のタアルクィニウスが南の都市国家ローマを征服し、王政を行った。その支配は一時ほぼイタリア全土に及んだ。しかし、前509年にローマからエトルリア人の王が追放されて、ローマとの戦いに敗れてから次第に衰退し、その後もたびたびローマとの戦いに敗北し、前264年までにほぼ征服されてしまった。

エトルリア文明

 エトルリア人の文明はローマ文明が栄える前のイタリア半島で開花した。18世紀になって、彼らの残した大量の美しい絵のある壺や金属器、多彩な壁画を持つ墳墓が次々と発掘され、にわかに注目を集めるようになった。彼らはギリシア文字を用い、遺跡からも史料が多数見つかったが、それはギリシア文字の音だけを借りて彼らの言葉を書き記したものであるらしく、その言語はインドヨーロッパ語系ではないらしく、意味は分からなかった。こうして考古学的な資料はたくさんあるのに、どこから来て、どんな社会を作っていたのかが判らないために、「謎の文明」と言われたのだった。現在判ってきたことは、「エトルリアの壺」と言われる多数の壺は、どうやらギリシアからの輸入品であったらく、ギリシア文字の使用とともにギリシア文化の強い影響を受けていることである。なお、ローマの北方にあるタルクィニアの町にはエトルリア時代の貴族の墳墓の地下墓室が多数残されており、楽しく歌舞音曲を楽しむ姿とともに、恐ろしい冥界思われる絵などが残されている。彼らはまた、鳥占いや肝臓占い(動物の肝臓を取り出して吉凶を占う)などを行っていたが、これはアジアに源流があると考えられている。<ジャン・ポール・テュイリエ『エトルリア文明』1994 知の再発見双書37 創元社刊 など>
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ノートの参照
第1章3節 ア.ローマ共和政
書籍案内

ジャン・ポール・テュイリエ/松田迪子訳
『エトルリア文明』
知の再発見双書37
1994 創元社刊