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パルミラ

シリアのオアシス隊商都市で、交通の要衝。3世紀にはローマとササン朝の中間にあり、女王ゼノビアのもとで繁栄したが、272年にローマ軍に破壊された。

世界遺産 パルミラ

パルミュラ GoogleMap

パルミュラともいう。シリア砂漠のほぼ中央に位置するオアシス都市で、ペルシア湾方面からダマスクスと地中海東岸の海岸都市を結ぶ隊商貿易の中間の要衝として栄えた。紀元前1世紀のヘレニズム時代から商業都市として繁栄したが、1世紀からはローマの勢力がこの地に及んだ。
 3世紀にはその東のイラン高原に興ったササン朝がシリアに進出するとそれに抵抗し、ローマとササン朝の中間にあって女王ゼノビアはシリアからエジプト、小アジアにかけての勢力を築いた。272年、ローマ帝国のアウレリアヌス帝(軍人皇帝の一人)が遠征軍を派遣し、パルミラを制圧した。女王のゼノビアは、才色兼備の女王でありローマ軍とよく戦ったが、敗れて捕虜となりローマに連行され(これについては異説もある)、パルミラもアウレリアヌス帝によって破壊された。
 現在はローマ時代の神殿や列柱のある道路、円形劇場などが砂漠の中の遺跡として残っており、世界遺産に登録されている。

隊商都市パルミラ

パルミラ: 写真
パルミラ (トリップアドバイザー提供)
メソポタミアと地中海を結ぶ最短ルート上にあるパルミラは、隊商都市として発展する条件に恵まれていた。すでに前2300年頃には最古の住居の痕跡があり、前2000年紀初頭にはアムル人の拠点となったことも知られている。前12世紀にはアラム人が居住していて、前1世紀にはアラブ系の住民が人口の首位になった。
 ナバテア王国がローマに併合されるとパルミラの重要性が増し、対立するローマとパルチア、ササン朝の緩衝地帯としての役割を果たすようになった。シルクロードも通過しており、パルミラの墓からは中国産のが副葬品として出土している。
 A.D.137年には市議会が関税法を発布し、すべての商品に課税しており、たとえば燃料用のマツボックリや奴隷の売買に、さらに娼婦の花代にも課税している。このパルミラ関税法はパルミラ語とギリシア語で記された碑文として残され、パルミラの交易活動の実態を詳細に伝える重要な史料となっている。<小林登志子『古代オリエント全史』2022 中公新書 p.278>

女王ゼノビア

 267年に親ローマのオデナトゥスが暗殺されると、未亡人ゼノビアは息子を王位につけ、自らも女王(在位267-272)と称し、一転して反ローマ的な政策をとった。ローマの混乱に乗じてゼノビア母子はエジプトおよびアナトリア中央部まで支配を拡大した。その背景にササン朝のシャープール1世の影響力があったかは、現時点ではわかっていない。
 272年、シリアのエメサ(現在名ホムス)でゼノビア率いる7万の重装騎兵はアウレリアヌス帝率いるローマ軍と衝突し、ローマの軽騎兵に翻弄され、大敗。投降勧告を拒否し、ササン朝の救援を求めようとしたゼノビアだったが、ユーフラテス河畔で捕らえられ、降伏した。ところが翌273年、パルミラが反旗をひるがえしたので帰路にあったアウレリアヌスは取って返し、パルミラを徹底的に破壊した。パルミラはその後ローマが再建し、東西交易の中継都市として存続したが、以前のように繁栄することはなかった。
 捕らえられたゼノビアの消息は、自殺したとか、再婚したとかの諸説があるが判然としない。ちなみにゼノビアより少し前、239年から4度にわたり魏に朝貢したのが邪馬台国の女王卑弥呼だった。<小林登志子『前掲書』p.280>

Episode 女傑ゼノビア

 18世紀イギリスの史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』第11章では、このパルミラと女王ゼノビアについて述べている。
(引用)・・・おそらくゼノビアこそは、アジアの風土風習が女の性(さが)として与える隷従怠惰の悪癖をみごとに打破してのけた、ほとんど唯一の女傑だったのではなかろうか。・・・その美貌はクレオパトラにもおさおさ劣らず、貞節と勇気でははるかに上だった。最大の女傑というばかりでなく、最高の美女としてもその名は高い。肌は浅黒く、・・・歯並みは真珠のように白かったという。漆黒のおおきな瞳は、ただならぬ光を帯びて輝き・・・声は力強く、しかも実に音楽的だった。<ギボン『ローマ帝国衰亡史』2 p.39 ちくま学芸文庫>
という最大限の賞賛を与えている。
 なお、ゼノビアとパルミラの遺跡については、牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書 p.45~ にも詳しく述べられている。

出題

2010年 京大 第2問 問(4)2 シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し、現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ。

解答

「イスラム国」による破壊

 2011年、チュニジアに始まったアラブの春といわれた民主化運動がシリアにも及び、アサド親子の長期政権を打倒しようとする民衆が蜂起した。しかしアサド政権はロシアなどの支援を受けて反政府運動抑圧に動き、シリア内戦に突入した。その内戦の過程で、スンナ派のカリフ政権の樹立を掲げる「イスラーム国(IS)」が急速に台頭した。
 2014年にアサド政権に対する反政府勢力として急成長した「イスラム国」(IS)は、2015年5月、シリア中部のパルミラを制圧した。シリア文化省のアブドゥルカリーム遺跡・博物館局長によると、同省はISがパルミラ侵攻後、イスラーム教の霊廟と国内有数の歴史的価値がある2世紀のライオン像(高さ3.5m)を破壊したことを確認しているという。シリア当局はISが歴史的遺産を破壊するのは、偶像崇拝禁止などの信仰心だけでなく貴金属の密売による資金獲得が目的であるとしており、遺跡の博物館の多くの収蔵品はISの制圧前にダマスカスに移したという。ISは8月中旬には元遺跡管理責任者で考古学者のハレド=アサド氏を殺害、そしてついに23日には世界遺産の一部で最も保存状態のよかったバール・シャミン神殿を爆破したと複数の通信社が伝えている。<朝日新聞 2015年8月18日、8月24日の記事による>
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書籍案内

小林登志子
『古代オリエント全史』
2022 中公新書

エドワード・ギボン
『ローマ帝国衰亡史』2
中野好夫訳
1997 ちくま学芸文庫

牟田口義郎
『物語中東の歴史』
2001 中公新書