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シャープール1世

3世紀、ササン朝ペルシアの王で、ローマ帝国と争い、260年に皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした。

 3世紀のササン朝ペルシア第2代の王(在位241~272)。Shapuhr Ⅰ シャープフルとも表記する。ユーフラテス川上流のハトラ攻撃中に父のアルデシール1世が没したため、王位を継いだ。即位すると自らをイラン人だけでなく非イラン人をも支配する「王の王」であると称し、ササン朝の領土をイラン高原から東西に拡大してササン朝の帝国支配を確立した。東はインドのクシャーナ朝を圧迫し、西はローマ帝国と戦った。260年にはアルメニアに進出し、ローマ帝国の軍をエデッサの戦いで破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。彼はそのときの勝利を記念して、アケメネス朝の王墓群の麓に記念碑を建てている。

マニ教を保護

 シャープール1世は、当時イランの領内であったバビロンで興ったマニ教を保護し、その創始者マニ(マーニー)を宮廷に招いて保護したことで知られている。マニ教はゾロアスター教とキリスト教や仏教の教えと折衷した教えであったが、光明神アフラ=マズダと暗黒神アーリマンの抗争が、最後にはアフラ=マズダの勝利に終わるというゾロアスター教の教義を否定し、現実をより悲観的にみて善行による救済を説くものであったのでゾロアスター教祭司団からは異端であるとして否定されていた。父のアルデシール1世は、新たな権力を創始するためにゾロアスター教祭司団の権威を利用しようとしてその保護にあたったものと考えられるが、シャープール1世はローマとの戦いで勝利するなど、すでに権威を確立していたからか、ゾロアスター教の保護による正当性の強調に熱心でなかった。
 おそらくは、シャープール1世は石としてのマニの能力を評価し、宮廷に招いて徴用したものと思われ、シャープール1世自身がゾロアスター教を放棄したわけでもなく、宮廷におけるマニの影響力は限定的であったようだ。それゆえ、シャープール1世が死去するとマニは宮廷を離れ、教団の発展に専念する。シャープール1世の王位を継承したワフラーム1世は、祭司長のキルデールの進言通り、マニ教弾圧に踏み切り、やがてマニは捕らえられて処刑されることとなる。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.46>
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ノートの参照
1章1節 キ.パルティアとササン朝
書籍案内

山本由美子
『マニ教とゾロアスター教』
1998 世界史リブレット 4