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シャープール1世

3世紀、ササン朝ペルシア最盛期の王で、ローマ帝国と争い、260年に皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした。東方にも勢力を拡張してクシャン朝を圧迫し、西はアルメニア、シリア北部、東はインダス川流域にいたる大帝国を建設した。ゾロアスター教を国教としていたが、新たに興ったマニ教も保護した。

 3世紀のササン朝ペルシア第2代の王(在位241頃~272頃)。Shapuhr Ⅰ シャープフル、シャーブフルとも表記する。ユーフラテス川上流のハトラ攻撃中に父のアルデシール1世が没したため、王位を継いだ。即位すると自らをイラン人だけでなく非イラン人をも支配する「王の王」であると称し、ササン朝の領土をイラン高原から東西に拡大してササン朝の帝国支配を確立した。 → イラン / イラン系民族
 シャープール1世の即位年は、はじめ父のアルデシール1世の晩年の240年に長男として共同皇帝となり、242年に単独皇帝となった、と説明されている。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.142>

相次ぐ戦勝

 シャープール1世は、東はインドのクシャーナ朝を圧迫し、西はローマ帝国と戦った。その連戦連勝をなしとげた軍事的才能は帝国の誇りとして賞賛され、領内各地に勝利をたたえる記念碑が建造された。
ローマ軍を破る 西方のローマ帝国の皇帝ゴルディアヌス3世はササン朝の地中海方面への進出を阻止し、みずから軍を率いてアンティオキアに出兵、さらにササン朝の都クテシフォンに迫ったのに対し、シャープール1世は644年、その近郊のマッシケ(ミシケー)で戦い、皇帝を敗死させた。替わった皇帝フィリップスとは50万ディナールの賠償金を支払わせて和平した。その10年後、再びローマ皇帝ウァレリアヌスが派遣したローマ軍を破り、アンティオキアなどを占領した。
エデッサの戦い ローマ皇帝ウァレリアヌスは反撃をこころみ、みずから出撃してきたが、シャープール1世はそれを260年エデッサの戦いで破り、皇帝自身を捕虜とした。シャープール1世はそのときの勝利を記念して、かつてのアケメネス朝ペルシアの王墓群の麓に記念碑を建てている。この時、シャープール1世に敗れたヴァレリアヌスは軍人皇帝の一人で、その敗北は大きな衝撃をローマに与え、3世紀の危機の現れの一つともとらえられている。
アルメニアの宗主国に 相次ぐ勝利によってササン朝は、北西の辺境国アルメニアを従属させ宗主国とした。しかし、その地を巡るローマ帝国との争いはディオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝の間も断続的に続いた。
クシャン朝との戦い 251年にはシャープール1世は東方遠征を企て、クシャーナ朝に侵攻した。その結果、ペシャワールから中央アジアのタシケントまでがササン朝の版図となり、クシャーナ朝は実質的に滅亡し、ササン朝支配下の地方政権となって衰退していった。
パルミラの女王ゼノビア シリアにあって東西交易の中心的商業都市国家として栄えていたパルミラ(パルミュラ)は、ローマと結んでペルシア軍に抵抗し、しばしばそれを破るほどで、シャープール1世の西進の障害となっていた。ところがパルミラ王が暗殺され、替わった王妃ゼノビアが主導権を握ると、彼女は大シリア王国を建設しようとしてペルシア皇帝の力を借りようとした。しかしシャープール1世は271年、パルミラを占領し、ゼノビアを捕らえ、ティヴォリに追放してしまった。

マニ教を保護

 シャープール1世は、当時イランの領内であったバビロンで興ったマニ教を保護し、その創始者マニ(マーニー)を宮廷に招いて保護したことで知られている。マニ教はゾロアスター教とキリスト教や仏教の教えと折衷した教えであったが、光明神アフラ=マズダと暗黒神アーリマンの抗争が、最後にはアフラ=マズダの勝利に終わるというゾロアスター教の教義を否定し、現実をより悲観的にみて善行による救済を説くものであったのでゾロアスター教祭司団からは異端であるとして否定されていた。父のアルデシール1世は、新たな権力を創始するためにゾロアスター教祭司団の権威を利用しようとしてその保護にあたったものと考えられるが、シャープール1世はローマとの戦いで勝利するなど、すでに権威を確立していたからか、ゾロアスター教の保護による正当性の強調に熱心でなかった。
 おそらくは、シャープール1世は医師としてのマニの能力を評価し、宮廷に招いて重用したものと思われ、シャープール1世自身がゾロアスター教を放棄したわけではないが、宮廷におけるマニの影響力は限定的であったようだ。それゆえ、シャープール1世が死去するとマニは宮廷を離れ、教団の発展に専念する。シャープール1世の王位を継承したワフラーム1世は、祭司長のキルデールの進言通り、マニ教弾圧に踏み切り、やがてマニは捕らえられて処刑されることとなる。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.46>