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ササン朝ペルシア

3世紀にパルティアに代わりイラン高原を支配した農耕イラン系国家。ローマ帝国・ビザンツ帝国と抗争。高度なイラン文明を発達させたが、7世紀半ばにイスラーム勢力の侵攻を受け滅亡した。

 古代のイランにおいて、紀元後226年、パルティアに替わって登場した王朝。パルティアが遊牧イラン人主体であったのに対し、ササン朝は農耕イラン人であるペルシア人が建国した。初代はアルデシール1世であるが、ササン(サーサーン)というのは、アルデシールの祖父の名に由来する。都はパルティアと同じクテシフォンに置かれた。この王朝は自らの正当性をイランの伝統を継承することに置いたので、ゾロアスター教を国教とした。
 ササン朝は西方のローマ帝国と激しく抗争した。シャープール1世アルメニアに進出してローマ軍を破り、東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。6世紀に中央アジアに興ったエフタルに侵入され、一時衰えたが、ホスロー1世が出て国力を回復し、エフタルを撃退するとともにビザンツ帝国と互角に戦った。また、シャープール1世の時にマニ教が保護されたことがあったが、ホスロー1世は国教としてのゾロアスター教の整備に努め、聖典アヴェスターが編纂され、マニ教は異端として禁止された。また、ササン朝のもとで高度なササン朝の文化が生まれ、シルクロードを通じて、日本を含む東アジアにも影響を与えた。しかし、長期にわたるビザンツ帝国との抗争は次第に国力を奪い、その間にアラビア半島に興ったイスラーム教勢力がササン朝領に侵攻を開始、642年のニハーヴァントの戦いに敗れて急速に弱体化し、651年に滅亡した。それによってイラン人のイスラーム化が進み、西アジア史は一変する。

アルデシールによる建国

 ササン朝の勃興に関しては不明な点も多いが、最も信憑性の高い説では、ササン家はパールス地方(ペルシア人の故郷)のイスタフルという町にあるゾロアスター教の大寺院の世襲の守護者であったという。紀元後3世紀の初めごろ、その一族のパーパクが、パルティア王国の臣下の地方王朝から、その地方の権力を奪い、その末子のアルデシールがその地位を継承した。アルサケス朝パルティアのアルダバーン5世はそれを認めず、軍隊を派遣したが、224年にアルデシールが勝ち、パルティア王は殺された。パルティア王の死は全イランに衝撃を与えたが、アルデシールの野心はとどまることなく、2年のうちにイランの西部地方を従え、226年に自ら「王の王」として戴冠した。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.198->

ゾロアスター教の国教化

 アルデシールは軍事的天才であっただけでなく、行政的統治能力にも長けており、ペルシア帝国を再現するための宗教的プロパガンダとして、アルサケス朝パルティアよりも自分たちは信心深く、アケメネス朝ペルシアのアフラ=マズダ信仰を継承する正統であると宣伝した。それを助けたゾロアスター教祭司(マギ)団の祭司長がタンサールという人物で、タンサールはササン朝が正統なゾロアスター教の保護者であることを示すために、地域でばらばらだった教徒集団を単一のゾロアスター教教会に統合し、『アヴェスター』本文の唯一の正典を確立し、暦を改定し、死者などの偶像を破壊して王朝の認めた寺院の火のみを崇拝するようにした。このようなゾロアスター教の「国教化」は、次のシャープール1世が異端のマニ教に傾倒したため、一時衰えたが、その後の王によってさらに推進され、ホスロー1世の時に完成する。

マニ教の出現と弾圧

 しかし、ササン朝時代は、西方のユダヤ人の中から興ったキリスト教と東方のインドに興った仏教の影響がイランにおよび、イラン本来のゾロアスター教が大きく動揺した時代であった。特にバビロンで活動したペルシア人マニ(マーニー)は、キリスト教(グノーシス派)と仏教の影響を受けてゾロアスター教と折衷させた新たな宗教の教祖となった。シャープール1世はこのマニ教を一時保護したため、ゾロアスター教祭司団は危機感を強め、祭司長のキルデールはシャープール1世の死後、王となったホルミズド1世に働きかけてマニを異端として捕らえさせ、弾圧を行った。その後、何台もの国王に仕えて長期にわたって祭司長を務めたキルデールは、マニ教に対抗してゾロアスター教の教義を明確にするため、『アヴェスター』の編纂を急ぎ、さらにイラン全土でのペルシア語の公用化を図った。

ローマ、クシャーナ朝との抗争

 3世紀の第2代シャープール1世(在位241~272)の時強大となってアルメニアに進出し、260年にはローマ帝国と戦って、エデッサの戦いで皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。ローマのユリアヌス帝もササン朝軍との戦いでの傷がもとで死んでいる。また東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。

エフタルとマズダグ教

 6世紀初めには中央アジアに興ったエフタルの侵入を受けて一時危機に陥った。484年には国王ペーローズがエフタルとの戦いで戦死し、その子でエフタルの捕虜となった経験のあるカワードが即位すると、そのころマニ教の影響で生まれ、所有の平等や女性の共有を説くマズダク教に理解を示したため、貴族と聖職者によって廃位され、一時エフタルに身を寄せることがあった。カワードはエフタルに支持されてササン朝ペルシアの王位に復帰するが、マズダグ教支持をやめる。

全盛期、ホスロー1世

 6世紀中ごろのホスロー1世(在位531~579)は、東方のモンゴル草原からおこり、中央アジアに進出してきたトルコ系の突厥と結んで、567年頃にエフタルを滅ぼすことに成功した。またホスロー1世は、ビザンツ帝国ユスティニアヌスとも戦い、有利な平和条約の締結に成功、その一方で、アラビア半島南端のイエメンを占領し、インドとの間のアラビア海貿易路を抑え全盛期を迎えた。
アヴェスターの編纂 ホスロー1世はマズダク教を厳しく弾圧し、ゾロアスター教を国教として熱心に保護したので、「アノーシラワーン」(不滅の魂をもつ、の意味)という称号を得た。また、国教としてのゾロアスター教の教義を明確にするため、それまで口承で伝えられ、文献としては断片として残っていたに過ぎなかったその聖典『アヴェスター』の編纂を進めた。現在見ることのできるアヴェスターはこの時編纂されたものの一部である。

ホスロー1世の死とその後

 ホスロー1世は何年も戦場で過ごし、エフタルとの抗争に終止符を打って北方の国境線に平和を達成したが、579年、ビザンツとの戦いで死んだ。その子ホルミズド4世は父以上に公正な支配者であり、異教徒の臣下に対してもきわめて寛容であったが、その平等主義に反発したパルティアの名家ミフラーン家の反乱を呼び起こし、ホルミズドは殺された。ホルミズドの遺児ホスロー2世はビザンツ皇帝の支援でミフラーン家を倒し、王位を維持した。ホスロー2世は熱心に聖火を崇拝したことが『王書(シャー=ナーメ)』に記録されている。

ビザンツとの抗争

 ホスロー2世(在位590~628)は王位を確定すると、今度はビザンツ帝国の混乱に乗じて小アジアに進出、さらに614年にはイェルサレムを襲撃し、イエスが磔(はりつけ)になったという十字架を持ち去った。それに対して、ビザンツ帝国ではヘラクレイオス1世(在位610~641)が態勢を建て直し、628年には一時クテシフォンを占領するなど、両国の抗争が続いた。

イスラーム勢力の登場

 このササン朝とビザンツ帝国の長期にわたる抗争は、東地中海-レヴァント地方-シリア-メソポタミアを結ぶ東西貿易を衰退させ、その戦乱を避けた商人たちがアラビア半島南部のヒジャースを通るようになり、それがメッカやメディアの繁栄をもたらし、そこから世界史の新たな主役となるイスラーム教とその国家が台頭することとなる。

ササン朝の滅亡

 7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対するジハード/聖戦を展開した。正統カリフ時代の第2代カリフのウマルは、まず637年にカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍を破り、その余勢を駆って、642年ニハーヴァントの戦いでさらに勝利を重ねた。敗れたササン朝ペルシアの最後の王ヤズダギルト3世は各地を転々とし、651年にメルヴで従者に殺害され、ササン朝ペルシアは滅亡した。以後、イランは急速にイスラーム化し、イラン人イスラーム教徒はイスラーム王朝で特に官僚などとして活躍するようになる。また、アケメネス朝以来の高度なイラン文化は、イスラーム文化と融合してイラン=イスラーム文化を形成する。

ササン朝の文化

 ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としたことが特徴。また、ササン朝ではマニ教が興ったが、こちらは厳しく弾圧された。その社会は農業を基本とした厳格な階級社会であり、その上にササン朝の専制君主制が成り立っていた。 → ササン朝の文化
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1章1節 キ.パルティアとササン朝