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ササン朝ペルシア

3世紀にパルティアに代わりイラン高原を支配した農耕イラン系国家。ローマ帝国・ビザンツ帝国と抗争。ゾロアスター教を国教とし、高度なイラン文明を発達させたが、7世紀半ばにイスラーム勢力の侵攻を受け滅亡した。

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イラン人国家の建設

ササン朝地図
ササン朝の最大領域(7世紀初め)
古代のイランにおいて、紀元後226年パルティアに替わって登場した王朝。パルティアが遊牧イラン人主体であったのに対し、ササン朝は農耕イラン人であるペルシア人が建国した。初代はアケメネス朝と同じペルセス地方を拠点としたアルデシール1世であるが、この古代国家は一般にアルデシールの祖父の名に由来するササン朝ペルシア帝国(注)と言われている。都はパルティアと同じくティグリス河畔のクテシフォンに置かれた。この王朝は自らの正当性をイランの伝統を継承することに置いたので、ゾロアスター教を国教とした。
(注)ササン朝ペルシアの表記 ササン朝ペルシア帝国、アルデシール、クテシフォンといった、現在の高校教科書での呼称はいずれもギリシア語文献か近代ペルシア語での表記により、カナで表記にしている。しかし最近では、本来の中世ペルシア語の表記を用いることが研究書では広がっており、概説書でもそれに従うものもあらわれている。それによると本来はササン朝はサーサーン朝とされている。またペルシア帝国とは他称であり、彼らは自らをエーラーンと呼んでいたのでエーラーン帝国とする。アルデシールはアルダフシール、クテシフォンはテースィフォーン、シャープールはシャーブフルと表記される。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書>
 学術的な表記ではそうすべきであろうが、高校教科書では旧来通りなので、ここでも通称に従っておく。

アルデシール1世による建国

 ササン朝の勃興に関しては不明な点も多いが、最も信憑性の高い説では、ササン家はペルセス地方(ペルシア人の故郷)のイスタフルという町にあるゾロアスター教の大寺院の世襲の守護者であったという。紀元後3世紀の初めごろ、その一族のパーパクが、パルティア王国の臣下の地方王朝から、その地方の権力を奪い、次いでその末子のアルデシール1世が兄に代わってその地位を継承した。アルサケス朝パルティアのアルタバーヌス5世はそれを認めず、軍隊を派遣したが、224年にアルデシールが勝ち、パルティア王は殺された。パルティア王の死は全イランに衝撃を与えたが、アルデシールの野心はとどまることなく、2年のうちにイランの西部地方を従え、226年に自ら「王の王」として戴冠した。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.198->

ゾロアスター教

 アルデシールは軍事的天才であっただけでなく、行政的統治能力にも長けており、ペルシア帝国を再現するための宗教的プロパガンダとして、アルサケス朝パルティアよりも自分たちは信心深く、アケメネス朝ペルシアのアフラ=マズダ信仰を継承する正統であると宣伝した。それを助けたゾロアスター教祭司(マギ)団の祭司長がタンサールという人物で、タンサールはササン朝が正統なゾロアスター教の保護者であることを示すために、地域でばらばらだった教徒集団を単一のゾロアスター教教会に統合し、『アヴェスター』本文の唯一の正典を確立し、暦を改定し、死者などの偶像を破壊して王朝の認めた寺院の火のみを崇拝するようにした。このようなゾロアスター教の「国教化」は、次のシャープール1世が異端のマニ教に傾倒したため、一時衰えたが、その後の王によってさらに推進され、ホスロー1世の時に完成する。

シャープール1世

 ササン朝は西方のローマ帝国と激しく抗争した。3世紀中頃、第2代のシャープール1世(在位241~272)はアルメニアに進出してローマ軍を破り、260年にはエデッサの戦いで皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。一方、東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。これによってその版図は、西はアルメニア・シリア北部から東はインド北西部・バクトリアに及び、ササン朝ペルシア帝国を出現させた。
マニ教の出現 ササン朝のシャープール1世時代は、西方のユダヤ人の中から興ったキリスト教と東方のインドに興った仏教の影響がイランにおよび、イラン本来のゾロアスター教が大きく動揺した時代であった。特にバビロンで活動したペルシア人マニ(マーニー)は、キリスト教(グノーシス派)と仏教の影響を受けてゾロアスター教と折衷させた新たな宗教の教祖となった。シャープール1世は、ゾロアスター教を国教とすることは継続していたが、このマニ教に対しても寛容で、むしろ保護を加える姿勢を取った。

その後のローマとの関係

 4世紀のシャープール2世(在位309~379)の時代にもローマとの関係は緊張が続いた。その背景には313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教が公認されたことがあった。当時ササン朝ペルシア帝国の中のアルメニアやシリアに住む多数のキリスト教徒はゾロアスター教が国教とされていたため迫害されていたので、ローマの保護を受けることを望むようになった。ところが325年のニケーア公会議アタナシウス派の三位一体説が正統として定められたが、ササン朝支配下の西アジアにはネストリウス派の信仰が浸透していたので、宗教を巡るローマとササン朝の関係は複雑になっていった。コンスタンティヌス帝とシャープール2世はアルメニアをそれぞれの勢力下にあるとしたので、アルメニア王はローマとペルシアの双方に朝貢してバランスを取ろうとした。両者のアルメニアを巡る攻防は断続的に続いた。ローマ帝国のユリアヌス帝は、363年には都クテシフォン付近まで遠征してきたが、シャープール2世のササン朝軍に敗れ、ユリアヌスも戦死している。
ネストリウス派のキリスト教徒 431年にはエフェソス公会議ネストリウス派が異端とされた。ササン朝支配下の西アジアではネストリウス派の影響力が強く、さらにローマ領内で追放されたネストリウス派がササン朝領内に逃れてきた。ササン朝はこれらのネストリウス派キリスト教の信仰に寛容であったので、その信仰はササン朝領内に広がっていった。しかもそのころ、北インドのクシャーナ朝は衰退し、ササン朝と中国(魏晋南北朝時代)が国境を接するようになったので、ネストリウス派キリスト教も中国に伝えられ、後に景教と言われるようになる。またイラン人のゾロアスター教から派生したマニ教も中国に伝えられ、摩尼教といわれ、ともに唐代に長安などで盛んに信仰された。

ゾロアスター教の復興

 シャープール1世マニ教を一時保護したため、ゾロアスター教祭司団は危機感を強め、祭司長のキルデールはシャープール1世の死後、王となったホルミズド1世に働きかけてマニを異端として捕らえさせ、弾圧を行った。その後、何代もの国王に仕えて長期にわたって祭司長を務めたキルデールは、マニ教に対抗してゾロアスター教の教義を明確にするため、『アヴェスター』の編纂を急ぎ、さらにイラン全土でのペルシア語の公用化を図った。
エフタルの侵入とマズダグ教 5世紀初めには中央アジアに興ったエフタルの侵入を受けて一時危機に陥った。484年には国王ペーローズがエフタルとの戦いで戦死し、その子でエフタルの捕虜となった経験のあるカワードが即位すると、そのころマニ教の影響で生まれた、所有の平等や女性の共有を説くマズダク教に理解を示したため、貴族と聖職者によって廃位され、一時エフタルに身を寄せることがあった。カワードはエフタルに支持されてササン朝ペルシアの王位に復帰するが、マズダグ教支持をやめる。

ササン朝の再興、ホスロー1世

 ササン朝は、5世紀に中央アジアに興ったエフタルに侵入され、一時衰えたが、6世紀中ごろのホスロー1世(在位531~579)は、東方のモンゴル草原からおこり、中央アジアに進出してきたトルコ系の突厥と結んで、559年頃にエフタルを滅ぼすことに成功した。またホスロー1世は、ビザンツ帝国ユスティニアヌスとも戦い、有利な平和条約の締結に成功、その一方で、アラビア半島南端のイエメンを占領し、インドとの間のアラビア海貿易路を抑えササン朝の繁栄を復興させた。
ホスロー1世の治世の文化 ホスロー1世の治世は、学芸文化の面でもササン朝の最盛期であった。529年、ビザンチン帝国のユスティニアヌス帝の異教禁圧によってアテネのアカデメイアが閉鎖されると、ギリシア人学者の亡命を受け入れ、首都クテシフォンに哲学や医学の研究機関を設立して、ギリシアやインドの著作のペルシア語訳を盛んに行った。またシリア~多くの職人を移住させ、金銀細工やガラス器などの優れた作品が生み出された。<尾形禎亮/佐藤次高篇『西アジア(上)』1993 地域からの世界史7 朝日新聞社 p.94>
アヴェスターの編纂 ホスロー1世はマズダク教を厳しく弾圧し、ゾロアスター教を国教として熱心に保護したので、「アノーシラワーン」(不滅の魂をもつ、の意味)という称号を得た。また、国教としてのゾロアスター教の教義を明確にするため、それまで口承で伝えられ、文献としては断片として残っていたに過ぎなかったその聖典『アヴェスター』の編纂を進めた。現在見ることのできるアヴェスターはこの時編纂されたものの一部である。
ササン朝の文化と社会 ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としたことが特徴。また、ササン朝ではマニ教が興ったが、こちらは厳しく弾圧された。その社会は農業を基本とした厳格な階級社会であり、その上にササン朝の専制君主制が成り立っていた。ササン朝の元で生まれたイラン独自のササン朝の文化は、シルクロードを通じて、日本を含む東アジアにも影響を与えた。

ビザンツとの抗争

 ホスロー1世は何年も戦場で過ごし、エフタルとの抗争に終止符を打って北方の国境線に平和を達成したが、579年、ビザンツとの戦いで死んだ。その子ホルミズド4世は父以上に公正な支配者であり、異教徒の臣下に対してもきわめて寛容であったが、その平等主義に反発したパルティアの名家ミフラーン家の反乱を呼び起こし、ホルミズドは殺された。ホルミズドの遺児ホスロー2世はビザンツ皇帝の支援でミフラーン家を倒し、王位を維持した。ホスロー2世は熱心に聖火を崇拝したことが『王書(シャー=ナーメ)』に記録されている。
「最後の大王」ホスロー2世 ホスロー2世(在位590~628)は王位を確定すると、今度はビザンツ帝国の混乱に乗じて小アジアに進出、さらに614年にはイェルサレムを襲撃し、イエスが磔(はりつけ)になったという十字架を持ち去った。ホスロー2世は、一時はエジプトまで進出したが、それに対して、ビザンツ帝国ではヘラクレイオス1世(在位610~641)が態勢を建て直し、征服された地域を奪回して、さらに628年には一時クテシフォンを占領した。その年、ホスロー2世は没し、「最後の大王」となった。その後も両国の抗争が続いたため、西アジアの交易ルートは衰え、その間隙を縫って7世紀に紅海ルートの交易が盛んになっていった。

イスラーム勢力とササン朝の滅亡

 このササン朝とビザンツ帝国の長期にわたる抗争は、東地中海-レヴァント地方-シリア-メソポタミアを結ぶ東西貿易を衰退させ、その戦乱を避けた商人たちがアラビア半島南部のヒジャースを通るようになり、それがメッカやメディアの繁栄をもたらし、そこから世界史の新たな主役となるイスラーム教とその国家が台頭することとなる。
ニハーヴァンドの戦い 7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対するジハード/聖戦を展開した。正統カリフ時代の第2代カリフのウマルは、まず637年カーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍を破り、その余勢を駆って、642年ニハーヴァントの戦いでさらに勝利を重ねた。敗れたササン朝ペルシアの最後の王ヤズダギルト3世は各地を転々とし、651年にメルヴで従者に殺害され、ササン朝ペルシアは滅亡した。
イランのイスラーム化 以後、イランは急速にイスラーム化し、イラン人イスラーム教徒はイスラーム王朝で特に官僚などとして活躍するようになる。また、アケメネス朝以来の高度なイラン文化は、イスラーム文化と融合してイラン=イスラーム文化を形成する。これによってイラン人のイスラーム化が進み、西アジア史は一変する。
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書籍案内

足利惇氏
『ペルシア帝国』
世界の歴史9
1977 講談社

M=ボイス/山本由美子訳
『ゾロアスター教』
2010 講談社学術文庫

尾形禎亮・佐藤次高
『西アジア上』
地域からの世界史7
1993 朝日新聞社


小川英雄/山本由美子
『オリエント世界の発展』
世界の歴史 4 1997
中公文庫版 2009

青木健
『ペルシア帝国』
2020 講談社現代新書