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晋(春秋)

中国の春秋時代、山西・河南一帯を支配。文公の時覇者となる。

周(西周)の武王の子の唐叔虞が黄河の支流汾水一帯に封じられたことに始まる。春秋時代の初め頃、晋は都の翼にいた本家と、その南の曲沃にいた分家が対立し、次第に力を蓄えた曲沃の称が翼を征服して、周王から晋の諸侯として認められた。それが晋の武公である。武公の次の献公は、愛妃の驪姫の産んだ末子をかわいがり、太子の申生を曲沃に退けた。申生は絶望して自殺、またその弟たち、重耳(ちょうじ)と夷吾は難を避けて亡命した。重耳はその後、十九年の亡命生活を送った後、秦の援助を受けて晋に戻り、即位して文公となった。晋の文公(在位636~628)は多くの忠臣に恵まれて晋を再建し、南の有力国楚を破り、周辺諸侯から推されて覇を唱え、春秋の五覇の一人に数えられるようになった。<司馬遷『史記』3 世家上 晋世家 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.167-229>

Episode 生煮えの熊の手料理に怒った君主

 しかし、晋の文公の死後の君公たちは暗愚であったり、酷薄であったりしたため、次第に民心が離れた。司馬遷の『史記』晋世家に伝える、晋の暗愚な君公の一例。
(引用)「霊公はすでに壮年になって、奢侈にふけり、租税を重くして牆壁に彫刻を施し、台の上から弾き弓を射ち出し、丸(たま)を避けてあわてふためく人々を眺めるのが好きであった。料理人が熊掌(ゆうしょう、熊の掌の肉、貴重な料理)を煮たが、よく煮えていなかったので、霊公は怒って、その料理人を殺した。そして婦人たちにその屍を運んで、外に棄てるよう命じた。婦人たちが朝堂の前を通りかかった。趙盾と随会は、従来もしばしば霊公を諫めて聴きいれられなかったが、いままた畚(もっこ)から垂れた死人の手を見ると、進んで諫めようと、まず随会が諫めた。しかし聴きいれられなかった。霊公はかれらの諫言を厭い、力士の鉏麑(しょげい)に趙盾を刺し殺すように命じた。鉏麑が早朝、盾の邸に行くと、寝室の門は開かれており、家がきちんとして節度があった。これをみると鉏麑は引き下がり、嘆息して、「忠臣を殺すのも、君命に従わないのも罪は一つだ」と言って、ついに樹に頭を打ちつけて自殺した。」<司馬遷『史記』3 世家上 晋世家 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.213/この話は『春秋左氏伝』上 小倉芳彦訳 岩波文庫 p.407 にも見られる。>

晋の分裂が戦国時代の始まり

 こうして晋の政治の実権は次第に六卿といわれる大夫たちの手に移り、そのなかの趙氏、韓氏、魏氏の三家が有力になった。この三家は晋の君主とは血縁関係が無く、いずれも他国から晋に移って、実力で大夫の地位を得た人びとであり、周王室を中心とした宗族の血縁関係で結ばれていた封建社会の秩序がくずれ、実力次第の下克上の時代に移ってきたことを示している。同じころ、有力国の一つのでも、その君公の地位を家臣の田氏に奪われている。前453年、趙・韓・魏の三家は当時の晋の実権を握っていた知氏を連合して滅ぼし、実質上、晋を三分した。そして前403年に周の威烈王に働きかけて、三家がそれぞれ独立した諸侯であることを認めさせ、晋は滅亡することとなった。一般にここから戦国時代が始まる、とされている。をまとめて三晋ということもあるが、これ以後は独立した三国として、戦国の七雄に数えられる。
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第2章3節 エ.春秋・戦国時代
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司馬遷『史記』3 世家上 小竹文夫・武夫訳
1995 ちくま学芸文庫