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中国の戦国時代、七雄の一つ。都は邯鄲。山西省から河北省を支配。前222年に秦に滅ぼされた。

 趙(ちょう)は、とともに、の家臣であった趙氏が自立し、前403年に建国した。この時から戦国時代に突入したとされている。山西省北半から河北省東南部にかけて支配し、都は邯鄲(かんたん)におかれた。趙は戦国の七雄の一つされ、北方を異民族と接していたので軍備に力を入れた。

騎馬戦法を採り入れる

 戦国の七雄の中でが強大になると、東方の韓・魏・趙・斉・燕の5国は連合してあたることになった。そのとき、連合国は秦を牽制するために、その北方にいた匈奴にも参戦を要請した。前318年のこの戦いは、連合国の内紛のため函谷関の戦いで秦軍に敗れてしまった。この時はじめて匈奴の存在が中国の歴史に登場した。
 趙の武霊王(在位前325~前299年)は前307年、「胡服騎射」という、匈奴の服装と騎馬の戦法を取り入れることを決意した。当時の中国の戦いの主流であった戦車戦は、戦車に御者と弓を引くもの、戈(ほこ)を持つものの三人が一組となって乗り、これが歩兵軍団を指揮して戦うものであった。戦車に騎乗するのは貴族であり、その働きが勝敗を決することが多かった。それにたいして武霊王が導入しようとした匈奴の戦法は騎兵を主体とするもので、騎兵は平民でも訓練さえ積めば強い戦闘力を発揮できるため、当時の貴族の立場を犯す危険性があった。司馬遷の『史記』趙世家では武霊王の胡服騎射導入に対して貴族たちが強く反対したことが物語られている。<沢田勲『冒頓単于』世界史リブレット 人14 2015 山川出版社>
 武霊王の軍制改革で騎馬戦術を採り入れた趙は、前296年に東の中山国を征服した。しかし、秦の強大化はその後も続き、前260年にはに敗れ(長平の戦い)、捕虜になった40万の兵士が秦軍に坑埋めされて殺されるという敗北を喫した。その後、将軍李牧が現れて、よく匈奴や秦と戦ったが、両面からの軍事的圧力で国力を消耗させ、ついに秦王政(後の始皇帝)に攻められて、前222年に滅亡した。

Episode 邯鄲の夢

 「邯鄲の夢」として知られる話は、趙の都邯鄲を舞台としている。邯鄲にやって来た盧生という青年は、偶然出合った呂翁という老人と、粟粥を煮ながら、自分の不遇を愚痴る。呂翁から夢が叶うという枕を与えられ、それを使ってみると、みるみる願いが叶い、立身出世をはたし、幸せな結婚もでき、王侯にまでなって一生を終える……というところで夢が覚めた。呂翁も目の前におり、粟粥はまだ煮上がっていなかった。ほんの一瞬の夢であったことを知った盧生は、すべての欲ははかないものであることに気づき、呂翁に礼を言って故郷に帰っていった。この話は唐の沈既済という人の小説『枕中記』にあるもので、日本でも「邯鄲の枕」とか「黄梁(粟粥のこと)の一炊」などとして知られており、能に採り入れられて『邯鄲』という演目で演じられている。また落語にも同じような話が多い。よく知られた『芝浜』も同系統の人情話である。
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ノートの参照
2章3節 エ.春秋・戦国時代
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沢田勲
『冒頓単于』
世界史リブレット 人14
2015 山川出版社