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春秋・戦国時代の有力国。長江中流を支配し、戦国時代には七雄の一つに数えられた。前223年、秦に滅ぼされた。

 楚は長江の中流域にあった国で、周(西周)から封じられたとされるがその起源は不明である。ある時から周王との封建関係を解き、みずから王を称するようになった。前7世紀ごろから次第に有力となり、しばしば北上して周王室をはじめ、晋などの黄河流域や中原の諸国を脅かすようになった。前7世紀末から前6世紀初めの楚の荘王は、北方の晋を破って中原に進出するなど有力となった。荘王は春秋の五覇の一人とされることもある。

戦国時代の楚

 戦国時代に長江流域を支配した春秋時代の楚以来の強国。呉や越を滅ぼし江南地方を支配し戦国の七雄の一つとされた。もとは南方系の民族とされ、独特の文化を持っていた。また、青銅貨幣である蟻鼻銭は楚の領域で流通した。
 戦国時代中期、威王(在位前339~前329年)のころは七雄の一つとして斉、秦などと対抗していたが、次第に秦が有力になると、楚国はなどと結んで秦に対抗する合従策を採るか、と同盟して安全を保つ連衡策を採るかで対立が生じた。
愛国詩人屈原 愛国詩人としても知られる屈原は、秦を信用することは危険であると主張したが、楚の懐王は秦の張儀の策略にはまり、秦との同盟に踏み切る。しかし、前299年に会盟を結ぶために秦に赴いた懐王は幽閉され、間もなくその地で死んでしまう。さらに前278年、将軍白起に率いられた秦軍によって楚の都郢(エイ)が攻撃され、都を南方に移さざるを得なくなった。このとき、楚の愛国詩人屈原は、祖国が秦のはかりごとで衰微したことを嘆き、汨羅の淵に投身自殺(翌年とも言う)したと伝えられている。最終的には、楚は前223年、に滅ぼされた。
馬王堆漢墓 なお「楚」は、漢代には王侯国の一つとされ、呉楚七国の乱では、楚国王は呉国王等とともに漢王朝に対する反乱を起こしたが鎮圧された。楚王のいた長沙(現在の湖南省の省都)は華南の政治、経済、文化の中心として栄え、1972年には後漢時代の馬王堆漢墓から地方の有力者の豪華な生活と、楚以来の高度な文化の存在が明らかになり、世界を驚かせた。
 なお、「楚」の王朝名は、五代十国時代十国の一つにも使われている。
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