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燕(戦国時代)

中国の戦国時代、河北省を中心に支配して有力となり、七雄の一つとされた国。前222年、秦に信仰されて滅亡した。

周の武王が殷の紂王を滅ぼしたとき、一族の召公という者を華北地方の燕に封じたのが始まりとされる。西周・東周時代を通じて、漢民族の最も西北辺境の国として続いた。燕の都は薊(現在の北京)であったが、北方からの遊牧民の侵攻と、南に隣接する斉の圧迫を受け、春秋時代は弱小勢力にとどまっていた。戦国時代になると力を蓄え、戦国の七雄の一つされるに至った。合従説で知られる縦横家の蘇秦が遊説に来て、一時は西方のと対抗する連合の主力となった。しかし、次第に秦に圧倒されるようになり、燕の太子丹は秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとして刺客の荊軻(けいか)を送り込みその暗殺を図ったが失敗し、かえって前222年、秦に攻撃され、滅ぼされた。<司馬遷『史記』3 世家上 燕召公世家 小竹文夫・武夫訳 p.95~>
 その都、燕京は後の遼、金の首都となり、さらに元代の大都、明の永楽帝以降は北京と言われるようになる。

Episode 「先ず隗より始めよ」

 戦国時代の燕の昭王(在位前311~前279年)は、小国の燕を強国にしたいと考え、まずどのようにして人材を集めたらよいかと賢者として知られる郭隗を訪ねて質問した。すると隗は「王が優れた人物を招きたいなら、まずこの隗を手始めにしてください。隗のような人間を仕えさせたたら、まして隗より優れた人物も仕えるようになるでしょう」と答えた。昭王がその言葉に従って隗を優遇したところ、各地から有能な人物がやってきて、燕は強国となった。このことから、「先ず隗より始めよ」とは先ず身近なところから始めよ、という意味の故事ができた。<この故事は司馬遷『史記』3 世家上(ちくま学芸文庫 p.111)、『戦国策』(講談社学術文庫 p.274)などにみえる>

Episode 名将楽毅

 燕に集まってきた有能な人材で最も有名なのは楽毅であろう。楽毅は昭王に仕えて大国斉を攻撃し、その都臨淄を占領、さらにそのほとんどを征服した。昭王は楽毅を昌国君に封じてその功に報いたが、次の恵王は楽毅を快く思わず、嫌っていた。身の危険をさとった楽毅は趙に逃れる。斉は力を盛り返し、楽毅を失った燕軍は次々と敗れ、その奪った土地はことごとく取り返された。後悔した恵王は楽毅を呼び戻そうとしたが、楽毅は「いにしえの君子は交わり絶つも悪声を出さず、忠臣は国を去るもその名を絜(きよ)くせず」(君子は友人と絶交しても悪口を言わず、忠臣は国を去っても自分の身の潔白を表明しない)と鄭重な手紙を恵王に送った。潔い態度を貫いた楽毅は、趙と燕の客卿となり、趙で死んだという。<司馬遷『史記』6 列伝二 楽毅列伝 小竹文夫・武夫訳 p.16/『戦国策』近藤光男訳編 講談社学術文庫 p.149>

五胡十六国時代の「燕」

 中国史上には戦国時代の燕の他に、同じ王朝名を名のったのが五胡十六国次の例がある。
  • 前燕(ぜんえん 337~370):鮮卑の慕容氏が熱河(竜城)に建国、後に河北の鄴(ぎょう)に遷都。前秦に滅ぼされた。
  • 後燕(こうえん 398~407):前秦淝水の戦いで敗れた後、慕容氏の慕容垂が前燕を復興させ、河北の中山を都とした。後に北魏に中山を追われた。
  • 北燕(ほくえん 409~438):後燕の漢人将軍であった馮跋が後燕を滅ぼし建国したが、北魏の圧迫を受けて弟の馮弘が高句麗に逃れたが殺され、滅亡した。
  • 南燕(なんえん 398~410):北魏が後燕の中山を押された後、慕容氏の一人が山東省に逃れ広固に都したが、劉裕に滅ぼされた。
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第2章3節 エ.春秋・戦国時代