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褚遂良


褚遂良 明版『集古像賛』

褚遂良書 雁塔聖教序
『改訂東洋美術全史』p.289

7世紀前半、唐代の太宗・高宗に仕えた政治家、書家。初唐三大書家の一人。則天武后を立后させようとした高宗を諫めたことでも知られる。

 ちょすいりょう 596~658 の全盛期、太宗と次の高宗に仕え宰相ともなった。書家としても著名で、欧陽詢・虞世南(ぐせいなん)とともに初唐三大書家とされる。太宗は自ら書道を愛好し、王羲之の墨跡を探索させ、科挙においても書の善し悪しを採点の基準の一つにした。はじめ、虞世南を書の先生にしていたが、その死去後、もはや先生はいないと嘆く太宗に、魏徴が褚遂良を推薦した。なお、盛唐の顔真卿を加えて、唐代の四大書家という場合もある。  → 唐の文化

Episode 君主の言行はすべて記録すべし

 褚遂良が仕えた唐の太宗が、臣下との間で交わした問答『貞観政要』には次のような話を伝えている。
(引用)貞観十三年、褚遂良が諫議大夫(門下省長官の侍中の下で君主に対する諫言を行う役職)となり、起居注(君主の言行を記録する史官)の長官を兼務した。そのころのころ、太宗が褚遂良に向かって、
「そなた、近ごろ起居注の長官を兼ねることになったが、いったいどんなことを記録しているのか、一度、見せてはくれまいか。いやいや、心配無用。わたし自身の長所短所を知って、今後の戒めとしたいだけじゃ」
「現代の起居注の役職は古代の左史・右史にあたり、君主の言行を記録するのが職務であります。君主の言行は良きにつけ悪しきにつけ、すべて記録にとどめますゆえ、なにとぞ法にはずれるおん振る舞いのなきようお願い申し上げます。されど、帝王がご自分でご自分の記録をご覧になるとは、古来、聞いたことがありません。おそれながらおことわりいたします」
「もしわたしがよからぬ振る舞いに及んだときは、それも必ず記録に留めるのか」
褚遂良が答えた。
「“道を守ろうとするなら、なによりも先ず与えられた職責を果たすことだ”と申します。わたくしの職責はすなわち記録することであります。陛下のなさることは、良きにつけ悪しきにつけ、逐一これを記録にとどめる所存です」
側でこの問答を聞いていた門下省次官の劉洎(りゅうき)が進み出て
「君主が過失をおかせば、すべての人々が日食や月食を見るように目を向けましょう。たとい褚遂良に記録をすることをさし止めたとしても、天下の人々の目を逃れることは出来ません」<呉競/守屋洋訳『貞観政要』ちくま学芸文庫 p.199>
 これは1400年前の中国の話です。その時代でも、権力にとって都合の悪い記録もしっかりと残さなければならない、という「公共」の理念があったのです。翻って現代の日本において、国家の記録が改ざんされたり、隠蔽されたり、あるいはそもそも作成されなかったり、役人が政治を忖度したり、ということが起こっているのは、太宗もさぞビックリすることでしょう。

則天武后の立后に反対し左遷される

 褚遂良は、太宗と高宗に仕え、有能な宰相として知られていた。高宗が則天武后を皇后にたてようとしたとき、武后が高宗の父太宗にも仕えていたことから、猛烈に反対し、もっていた笏(しゃく。高級役人が手に持つ細長い板。)で自分の頭を叩いて血を流し、「この笏は陛下におかえしし、私は郷里に隠棲したい」といい張った。高宗と武后の不興を買い、地方官に左遷されてしまった。<布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫 p.113>
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書籍案内

呉競/守屋洋訳編
『貞観政要』
初刊1975 再刊2013
ちくま学芸文庫