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唐の文化

中国の唐の文化の特徴。

唐の文化の特徴は、次の4点に要約される。特に前の二点は唐文化の最も重要な点として強調されている。

(1)豊かな国際性

 世界帝国として繁栄した唐には、西域を通りササン朝ペルシアのイラン文化が伝えられ、ビザンツ帝国やイスラーム世界とも接触、シルクロード交易が行われ、ソグド人商人などが活躍した。また周辺諸国と冊封体制を築き、朝鮮や日本からも使節や留学生が来朝し、都の長安は国際都市としてのにぎわいを見せていた。 → 豊かな国際性

(2)貴族文化の繁栄

 魏晋南北朝時代の北朝文化(遊牧民文化をもとにした質実剛健な文化)と南朝文化(漢文化を継承した華麗な文化)が融合し、中国文明の絶頂期といえる。それをささえたのは科挙によって選ばれ、律令制度を支える貴族たちであった。特に唐詩は貴族の教養とされたことにより優れた詩人、作品が排出し、中期以降は古文復興運動が起こった。絵画では宮廷絵画として山水画が盛んになった。

(3)儒教、仏教、道教の三教の展開

 この三教は互いに競いながらそれぞれに発展した。唐王朝は李姓であったことから道教を国教とし(その始祖とされた老子が李姓であった)保護したが、仏教に対しても寛容であると同時に国家統制を加えた。その中で仏教には中国独自の教典研究が進み、独自の宗派も生まれた。儒教は王朝の統治理念として科挙の試験科目とされ公式のテキストとして『五経正義』が編纂された。

(4)周辺諸国への影響

 唐文化は冊封体制のもとで周辺の諸民族に大きな影響を与えた。特に新羅、渤海、日本(奈良時代)などは遣唐使を派遣し、その政治体制や法制度だけでなく文化の吸収に努めた。漢字文化を基礎とした、儒学や仏教、律令制などが周辺諸国に受容されていった。

唐文化の国際性

 ここに、長安の豊かな国際性を描いた名文がある。石田幹之助博士の『長安の春』(1941)の一節である。長いが引用しよう。
(引用)「京城東壁の中門、春明門のあたりに立って見渡すと、西北にあたって遠く三省六部の甍を並べた「皇城」が見え、その北には最初の「宮城」(皇宮)が殿閣の頂を見せ、更にその東北にはその後の天子の居であった東内諸宮の屋頭が竜宮のように浮び、盛唐の頃ならば玄宗が新に営んでその常居となした興慶宮の一角が・・・・眉に迫る。西南には朱雀大路に沿うて薦福寺の小雁塔が民家の間に尖った頂を抜き、南の方の遙か遠くには慈恩寺の大雁塔が靉靆(あいたい)たる金霞の底に薄紫の影を包む。このあたりはこの上都長安と東都洛陽・北都太原等とを繋ぐ孔道の都に入ってくる処とて、馬車の往来は殊の外にはげしい。地方へ赴任の官吏も出てくれば駱駝を率いたキャラヴァンも出てくる。海東槿域の名産たる鷹を臂(ひじ)に載せて城東の郊野に一日の狩りを楽しむ銀鞍白馬の貴公子も来る。唐廷の儀仗に迎へられて、きらびやかな行列に・・・・歩みも緩く西に向ふのは、大和島根のすめらみことのみこともちて、遙に海を越えた藤原清河などの一行でもあらうか。外国の使臣の入朝するものもその東よりするものはすべてここから都へ入った。日本・新羅・渤海の如き遠き国々から、学を修め法を求めんとして山河万里笈を負うて至るものも皆この門をくぐる。我が空海も円仁も、円珍も宗叡も、みなここから都へ足を入れた。・・・・胡人の往来も亦稀ではない。春明門のほとりで西域の胡人に会ったという話は、唐の世には珍しい伝えではなかった。熱沓の区、東市の所在もすぐ近いこととて、たとへ西市に一籌を輸するとしても、流寓の外人はこのあたりにも少なくなかったらう。所謂タムガチの都クムダンの城(長安城の胡名)に大唐の天子を天河汗と仰いで、商販の利に集い寄る西胡の数はかなり多いものであった。・・・・往来の盛はまた路上ばかりでない。門の南には龍首渠の運河が繞(めぐ)り、江浙の米を運び南海の珍貨を山と積んだジャンクを浮べ、林立する檣(ほばしら)の間に錦帆が風を孕んで、水上の舟楫もまた賑はしいものであった。・・・・」<石田幹之助『長安の春』p.4 東洋文庫>
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第3章2節 イ.唐の制度と文化
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石田幹之助『長安の春』
講談社学術文庫