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交鈔

宋の交子・会子に次いで、金・元で発行された紙幣を交鈔という。フビライ=ハンは1260年に中統鈔という交鈔を発行し、以後主要通貨として流通した。元の後半には濫発され、価値が低下して経済が混乱し、元の衰退の一因となったとされている。

 中国の紙幣は北宋の交子に始まり、南宋で会子が発行され、で交鈔と言われるようになって発展したが、モンゴル帝国は金を滅ぼした後の1236年より、交鈔の発行を始めた。金の領土を引き継いだがその領内には銅山がなかったため、銅銭の原料に不足したため、と言われている。金も銅銭が不足していたので、交鈔を発行し、貨幣の代わりとしていたが、次第に濫発傾向となり、経済を混乱させていたので、モンゴル帝国では、当初は耶律楚材の建言もあり、交鈔発行額を制限した。
元の交鈔
1287年発行の至元鈔

フビライの中統鈔発行

 フビライはモンゴル帝国のハンに即位した1260年、「中統鈔」(中統は元の最初の年号)という交鈔を発行した。フビライは次いで南宋を滅ぼし、中華世界を統一して(大元ウルス)と国号を改めるが、そのめざした国家は、全く新しい、ユーラシア全域にまたがる通商国家の建設であった。
 帝国全域でのジャムチ(駅伝制)の整備、ムスリム商人の登用などと並んで、新たな通貨制度を採用した。それが紙幣である交鈔の本格的な発行であった。
 フビライの発行した中統鈔は、正式には「中統元宝交鈔」といい、額面は十文から二貫まで十種類あった。一文は銅銭一枚、銅銭千枚を一本のひもで通したものを「貫」といった。すくなくとも建前は兌換紙幣であったが、元は事実上銅銭を発行しなかった(発行しても少量の記念通貨だけだった)ので、実際には不換紙幣として信用だけで流通した。交鈔は元の 統一紙幣として発行され、すべての取引、役人への俸給なども交鈔で行うこととしたため、広く流通した。
 右の図は至元24年(1287年)に発行された「至元鈔」二貫の新札の銅版拓本。縦28.3cmの大きさだった。真ん中の文に「偽造者は死刑に処す」とある。大きなサイズにしたのは、すぐにボロボロになることを見込み、新札と取り替えるための手数料を取ったからといわれている。
 しかし宮廷の奢侈生活による出費も増大し、次第に交鈔が濫発されて価値が下落し、民衆生活を苦しめるようになって、元朝の滅亡を早めたとされている。

モンゴル帝国の経済発展

 13~14世紀に国家的規模で紙幣が発行され、流通したことは、世界史上初めてのことであったと言える。次の明朝でも洪武帝は交鈔をまねて紙幣を発行したが、準備金を用意せずに失敗した。元の紙幣に匹敵する紙幣製作が世界史上で現れるのは19世紀のことである。
 遊牧国家としてのモンゴル帝国のもとで世界的な経済圏が成立した。
(引用)モンゴル帝国の文明は、キタイ帝国(遼)以来の遊牧型の政治と定住型の経済の結合システムであったが、モンゴルの大征服の結果として、ユーラシア大陸の隅々まで治安と交通の便がよくなり、同じ文明のシステムが広く普及して、遠近の諸地域を結ぶ経済活動がこれまでになく活発になった。金領の華北ですでに成立していた信用取引の原理と資本主義経済の萌芽も、この情勢に乗ってモンゴル世界全体に広がり、その外側に隣接する西ヨーロッパにも強い影響を与えることになった。地中海世界では、モンゴル帝国の出現と同時の13世紀に、黒海と東地中海の貿易権を握っていたヴェネツィアに、ヨーロッパで最初の銀行が成立している。<岡田英弘『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』1992 ちくま文庫版 p.241>

Episode マルコ=ポーロを驚かせた交鈔の発行

 当時ヨーロッパには紙幣はなかったから、元で紙幣が使われていることはマルコ=ポーロを驚かせた。『東方見聞録』にも、元の紙幣の発行の様子が記録されている。それによると桑(正しくはコウゾ)の樹皮を煮詰めて紙をつくり、それを小さく裁断して紙面に金額を印刷し、ハンの朱印を捺す。「こうやってこの紙幣ができあがると、カーンは一切の支払いをこれで済ませ、治下の全領域・全王国にこれを通行せしめる。流通を肯んじなければ死刑になるので、だれ一人としてこれが授受を拒む者はいない。実際のところ、どの地方でもどんな人でも、いやしくもカーンの臣民たる者ならだれでも、快くこの紙幣での支払いを受け取る。というのも、彼らはどこへ行こうとこの紙幣で万事の支払いができる。・・・」<マルコ=ポーロ『東方見聞録』1 愛宕松男訳 平凡社東洋文庫 p.244~>

交鈔の濫発

 元は、南宋を制圧(1276年)すると、宋の発行していた紙幣(会子)を交鈔(中統鈔)に交換させ、宋銭の流通を禁止し政府に回収した。南宋の領土が編入されると、その経済力を継承するための、交鈔の増発が行われた。その後、急速に紙幣の濫発が進んみ、その価値は下落し、経済が混乱したので、1287年には新紙幣の至元鈔を発行し、価格の安定を図った。しかし、その後も濫発傾向は治まらず、14世紀にはその価値は約3分の1に下落した。<この項、愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫版 p.179~182>

参考 元の交鈔の評価

 交鈔については「銀とともに広く流通したが、のちに濫発され、経済混乱の原因となった」<山川出版社『世界史B用語集』 p.85>と説明されることが多いが、次のような指摘もあるので一概には言えないようだ。
  • 交鈔が万能だったわけではない。交鈔は銅銭に代わる通貨であり、小額紙幣であった。最高額面でも二貫文に過ぎず、大口取引には向かない、日常生活用であった。
  • 額面は銅銭の単位で表されているが、実際に流通する際にはとリンクし、銀の単位である両と銭に換算された。実際の取り引きで価値を持ったのは、元代にすでに銀であった。銀が携行しにくいので、安価な紙幣が発行された。
  • 高額紙幣の役目を果たしたのは、塩引(えんいん)という国家の専売制とさていた塩の引換券であった。当時塩は密売もされ高価な商品であったので、その引換券である塩引は有価証券として取り引きされ、事実上の高額紙幣の役目を果たしていた。
  • フビライが最初に発行した「中統鈔」は銀とリンクされ、元末まで基本紙幣として流通した。それに対して1287年に発行された「至元鈔」はその価値を5分の1とした。しかし中統鈔は基幹紙幣として発行され、価値は下がらなかった。代々の元朝当局が次々と濫発したのは「臨時通貨」だった。
  • 歴代の中華王朝の基本通貨は銅銭であったが、フビライの元は「銅銭主義」をとらず、銅銭を発行しなかった。しかし、南宋を滅ぼして新たな版図とした江南では銅銭をそのまま使用することを認めた。ただし、納税は銀と紙幣としたので、銅銭はだぶつき始めた。この元代に、前の宋代につくられた銅銭である宋銭が、大量に日本に輸出されたのにはそのような背景があった。
<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.242-255>
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ノートの参照
第6章3節 イ.元の東アジア支配
書籍案内

マルコ=ポーロ『東方見聞録』1 愛宕松男訳 東洋文庫

愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫

杉山正明
『クビライの挑戦』
1995 講談社学術文庫