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バイバルス

マムルーク朝のスルタン。十字軍、イル=ハン国との戦いに勝ち基盤を強める。特に1260年にアインジャールートの戦いでモンゴル軍を破った戦いは名高い。

 南ロシアの草原の遊牧民クマン族の人であったが、モンゴルの侵入の混乱で奴隷として売られ、アイユーブ朝のスルタン・サーリフに買われてそのマムルーク(バフリー=マムルーク)となった。マムルーク部隊の中で頭角を現してスルタンの親衛隊隊長となり、1250年にマンスーラで第6回十字軍を率いたフランス国王ルイ9世を捕虜にする功績を挙げ、その直後にクーデタを起こしてアイユーブ朝カリフを殺害、その妻のシャジャルを立ててマムルーク朝の成立を助け、実権を握った。

モンゴル軍の侵攻を阻止

 その後、1260年、マムルーク朝のスルタンとなる。そのころシリアを征服したフラグの率いるモンゴル軍がエジプトに迫って来たが、1260年、バイバルスはフラグの部下のキトブカがひいいるモンゴル軍を、パレスティナのアインジャールートの戦いで迎え撃ち、バフリー=マムルーク軍を指揮してそれを撃退した。これによってモンゴル軍はエジプト進出をあきらめ、イランなどの占領地の経営に向かうこととなる。

カリフ制度の再建

 1261年5月、バグダードで殺害されたアッバース朝の最後のカリフ(ムスタースィム)の叔父と自称する人物がダマスクスに逃れてきた。バイバルスはその人物をカイロに招き、裁判官や学者に調べさせた上で、この人物を新カリフ・ムスタンスィルとして擁立することを決めた。数週間後、バイバルスは新カリフを伴ってカイロ市中の広場へ赴き、アッバース家を象徴する黒色のターバンと紫色のガウンをカリフから授けられた。これによってバイバルスはカリフの代理のスルタンとしてイスラーム世界に承認されたことになる。
 さらにバイバルスはバグダードでカリフ制度を再建する口実で、新カリフをモンゴル占領下のバグダードに送り出した。ところがその護衛兵士はわずか300騎だけであったので、新カリフはユーフラテス川を渡ったところでモンゴル軍に捕らえられ、殺されてしまった。バグダードにカリフ政権が復活するとバイバルスの権力は危うくなると考えた措置であろう。新しく擁立されたカリフ・ハーキムはカイロ市民と接触することは禁じられるというまったく「道具」として存在するだけであった。それでもカイロのカリフはオスマン帝国に征服される1517年まで240年にわたって続く。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 p.298-301>

十字軍に対する攻勢

 1265年にフラグの死去を受けて、十字軍の残存勢力に対する攻勢を強め、シリア沿岸を北上、十字軍の拠点を次々と破壊して二度と使えないようにしていった。1268年にはアンティオキアを破壊した。さらに1271年には十字軍の拠点の一つとして残っていたクラック=デ=シュヴァリエ城を陥落させた。

Episode 計略でヨハネ騎士団の城を攻略する

 1271年3月、バイバルスはシリアのトリポリの近くに設けられた十字軍、ヨハネ騎士団が立てこもるクラック=デ=シュヴァリエ城を攻撃した。以下はその時の話。
(引用)3月3日、城の弱点だった南面の丘の外堡を奪うと、そこを足場に投石機を組み立て、その威力で外丸の壁に突破口をつくるや、攻め手は城内になだれ込む。一五日には本丸への進路を守る塔を奪い、三〇日にほ工兵隊が本丸口の塔を破り、本隊は階段を駈け上がって中庭を占領する。バイバルスほそこに投石機の設置を命じた。奮戦のかいなく多数の同志を失った守備隊は「展望台」の南の端、三個の丸い巨塔から成る「天守閣」にこもって最後の抵抗を試みる。寄せ手ほ攻めあぐむばかりだった。このようなとき、トリポリ伯から「これ以上の抵抗をやめ、降伏せょ」との密書が届いたので、城主は命令に従う。バイバルスはクラクの勇士たちを覚大に扱い、四月八日、彼らがトリポリに落ちて行く道を開いた。最後の一兵を見送ったバイバルスは、してやったり、と思ったことだろう。命がけの使者も密書も、実は彼が仕組んだペテンだった。イスラームにおいてはペテンは美徳、だまされた方が悪いのである。こうして、当時のヨーロッパ人にたたえられた”キリスト教徒の領土の鍵”は失われた。<牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書 p.233>

世界遺産 クラック=デ=シュヴァリエ城

 このとき破壊をまぬがれたこの城は現在もほぼそのまま残っていて2006年に世界遺産に登録された。正門の上部には、バイバルスの業績をたたえるアラビア文字の大きな碑銘が残っているという。この築城法は十字軍によってヨーロッパにも伝えられ、中世西洋の城塞建築にも大きな影響を与え、また「アラビアのロレンス」として有名なイギリスのロレンスは、中東の城郭の研究でも知られているが、彼も世界で最も素晴らしい城だと言っている。

バイバルスの統治

 バイバルスは、エジプトとシリアにまたがる領域を支配するために、バリードという駅伝制を整備した。カイロとダマスクス、アレッポなどを結ぶ道路網に、数十キロメートルごとに駅舎を置き、駅馬・人夫をおいた。それによってカイロからダマスクスまで4日で伝令が到着したという。またこの交通網の駅馬を供給させるため遊牧民を利用し、遊牧民の部族長にアミールの位を授与し、イクターを与えて体制に組み込んだ。 → イクター制

バイバルスの死

 1277年にエルビスタンでモンゴル軍を打ち破り、ダマスクスに戻ったバイバルスは、部下の将軍たちと恒例の馬乳酒による祝杯を挙げた。しかしこのとき急に腹痛をおこして倒れ、二週間後に息を引き取った。享年およ五十。死因については馬乳酒の飲み過ぎとも、毒殺とも伝えられるが真相は不明である。英雄バイバルスの墓はダマスクスの旧市街にはサラーフ=アッディーン(サラディン)の墓と並んでつくられている。サラディンのアイユーブ朝はその死後に内紛ですぐ瓦解したが、バイバルスのマムルーク朝は200年にわたる強固な国家となって存続した。
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ノートの参照
第5章2節 イ.バグダードからカイロへ
書籍案内

牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書

佐藤次高
『イスラーム世界の興隆』
世界の歴史8
1971 中公新書