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力リフ

ムハンマドの後継者の意味でイスラーム教団の最高指導者。ムハンマドの死後、632年以降、教団の中から選ばれていたが、680年にウマイヤ朝で世襲化が始まり、8世紀のアッバース朝でカリフの権力が最も強くなった。10世紀にはアッバース朝の衰退によって、カリフを称するものがコルドバとカイロに現れ、三カリフ時代となった。1258年、モンゴル軍によってバグダードが陥落したときにカリフも殺害され、その後、オスマン帝国ではスルタンがカリフを兼ねて権威を高めた。オスマン帝国の滅亡により、1924年にカリフ制度は廃止された。

 ムハンマドの後継者の意味で、本来の音はハリーファ。「神の預言者(ムハンマドのこと)の代理人(または後継者)」、というのが元の意味。イスラーム教徒(ムスリム)の政治的指導者であるとともに、その信仰の維持とイスラーム法の遵守の義務を負っており、政教一致の理念に基づいた地位である。ただし、イスラーム教ではムハンマドを「最後の預言者」としているので、カリフは預言者とはされず、あくまでその代理者としての権威が認められるだけである。

正統カリフ時代

 632年のムハンマドの死後、ムハンマドの義父のアブー=バクル(在位632~634)が信仰心、人物、識見などに優れているとして初代カリフに選出され、その後、第2代ウマル(在位634~644)、第3代ウスマーン(在位644~656)、第4代アリー(在位656~661年)まで4代のカリフの時期を正統カリフ時代という。この4カリフは、いずれもムハンマドの近親者か、あるいは信仰心の厚い者として選挙で選ばれた。しかし、カリフ自身は神の啓示を受けているわけではないので、その地位は「信徒の長」も称されるようになり、その権威を高めるためには政治的指導者としての力量を発揮する必要が強くなったため、彼らは盛んに聖戦(ジハード)を行わざるを得なかった。

シーア派の分離

 正統カリフ時代は、後の多数派スンナ派からは理想的な時代として語られるが、実際にはカリフの地位をめぐる対立が始まっており、656年には第3代カリフのウスマーン(ウマイヤ家の出身)が反対派によって暗殺されている。それは、信仰上の指導者はムハンマド直系の血を受け継ぐ者であるべきであるという思想が根強かったためであり、それに最も近い存在で第4代カリフとなったハーシム家のアリーとその子孫だけを信奉する人々は、歴代カリフを認めずシーア派として分派を形成するようになった。それに対して歴代カリフを承認する正統派はスンナ派(スンニー派)といわれ、両派の対立は、661年ウマイヤ朝が成立し、シリア総督ムアーウイヤの子孫がカリフの地位を世襲するようになったために、決定的となった。

カリフの変質

 ウマイヤ朝以降のカリフは宗教的指導者としての性格は弱まり、実質的には帝国の皇帝のような政治的存在となっていた。宗教的権威が低下するとともに、人格的に問題のある者がカリフとなることもあって、カリフに対する反乱が起こったりした。750年に代わったアッバース朝のカリフはムハンマドの近親者であったアッバース家が世襲することになり権威を回復しようとした。8世紀のカリフハールーン=アッラシードは都のバグダードの繁栄と供に、カリフの権力の絶頂期を迎えたが、その後は次第にイラン系の官僚やトルコ系の軍人に実権が移っていき、カリフの地位は形式的なものになっていった。

カリフの分立

 また、10世紀には北アフリカのファーティマ朝、イベリア半島の後ウマイヤ朝がそれぞれカリフを称し、バグダードのアッバース朝カリフと並んで三カリフ分立時代となった。エジプトにはバグダードのカリフを認めないファーティマ朝がカイロを建設し、シリアから北アフリカ一帯も支配した。

スルタンの出現

 バクダードには946年にイラン系のシーア派政権ブワイフ朝によって征服され、その大アミールによってカリフの実権は奪われた。さらに1055年、中央アジアから南下したトルコ系のセルジューク朝がバグダードを占領、そのスルタンのもとで実権を奪われ、カリフは名目的な存在として存続した。スルタンは、支配者・権力者を意味し、イスラーム世界では、10世紀の末、ガズナ朝マフムードがこの称号を用いた最初とされているが、公式に用いられるようになったのは、セルジューク朝からである。
 1055年にバグダードに入城したセルジューク朝のスルタンは政治的権力を行使し、カリフは宗教上の権威とイスラーム法の施行のみに関わる職責に限定された。ただしセルジューク朝では、スルタンは形式的ではあれ一応カリフの承認によって正当化される必要があった。

アッバース朝カリフのその後

 ブワイフ朝はシーア派を信奉していたが、アッバース朝カリフの宗教的権威は認めるという変則的な存在であった。次にバグダードに入ったセルジューク朝は明確にスンナ派の立場に立ち、アッバース朝カリフを擁護したが、実権はスルタンとして握っていた。(江戸時代の将軍と天皇の関係に近い。)
 11世紀末にキリスト教勢力による十字軍の侵攻が始まっても、バグダードのアッバース朝カリフはイスラーム世界の統一的な抵抗を組織することができず、パレスチナやシリアをキリスト教徒に奪われる事態となった。ファーティマ朝を倒してエジプトを制圧したサラーフ=アッディーンはシリアも支配してアイユーブ朝を建てたが、スンナ派を標榜していたので、バグダードのカリフの権威は尊重した。しかし、そのような中、13世紀中頃に新たな脅威として迫ってきたのがモンゴル帝国であった。

アッバース朝カリフの最後

 1258年モンゴル軍の西アジア遠征が行われ、フラグによってバグダードが破壊された時、最後のカリフも「革袋に押し込められて」殺害された。こうしてアッバース朝が滅亡したことによって実質的にカリフ制度は崩壊した。

スルタン=カリフ制

 その後、1262年にアッバース家のカリフを称する者がマムルーク朝の保護を受けてカイロに復活した、と伝えられているが、イスラーム神学の定説ではマムルーク朝以降のカリフは認められていないオスマン帝国も、その政治上の権力者であるスルタンは、マムルーク朝を征服したときにカリフの地位を兼ねることを認められたと主張しており、それをスルタン=カリフ制の根拠としていた。しかし、実際にはカリフの地位がそのように正当に継承されたことは事実では無く、 19世紀ごろまでにオスマン帝国のスルタンが権威を高めるために作り上げたことであるとする説が有力になっている。オスマン帝国がカリフ位を継承していることを強調したのは、西アジアのイスラーム世界の覇者としての支配権を維持しようとしたためであったが、次第に非トルコ人の中でもアラブ人の自覚が強まり、トルコ人支配に抵抗するようになった。


カリフ制度の廃止

オスマン帝国が滅亡しトルコ共和国が成立したことによって、1924年にカリフは廃止され、政教分離・世俗化が進められた。

 オスマン帝国の衰退に乗じてイギリス・フランス・オーストリア・ロシアなどが進出して、いわゆる東方問題が生じ、次々とオスマン帝国領の縮小が続き、さらに領内のギリシア人、スラブ人、アラブ人などの民族自立の動きも強まっていった。体制の維持を図るカリフによって改革の動きもあったが、いずれも不徹底なものに終わった。
 オスマン帝国は第一次世界大戦に参戦したが、敗戦国となったため、それを機にムスタファ=ケマルの指導によるトルコ革命が起こった。1922年にトルコ大国民議会はまず、スルタン制の廃止を決定したので、オスマン帝国は滅亡した。ただし、この時、宗教的指導者の地位であるカリフは分離され、残された。まだイスラーム教徒の中でカリフに対する尊敬心が強かったからであった。しかし、ムスタファ=ケマルはトルコ革命の最大の本質を、政教分離あるいは世俗化、つまり脱イスラームにおいていたので、憲法でもイスラーム教を国教とする規定を削除するという流れがあり、そのなかで、1924年3月3日にカリフ制度も廃止され、最後のカリフ、アブデュルメジト2世は国外追放となった。 → トルコの世俗主義改革
 なおこの時、アラビア半島のメッカなどを支配していたヒジャーズ王国のハーシム家(ムハンマドの子孫とされていた)の国王フセイン(フサイン)が代わってカリフに就任すると宣言したが、アラブ社会では承認されず、まもなくリヤドのイブン=サウード(アブドゥルアジーズ)に滅ぼされた。

ヒラーファト運動

 オスマン帝国のスルタン=カリフ制の危機はそのままカリフ制度の危機であり、さらにイスラーム全体の危機であると捉えたイスラーム世界の人々も多かった。1919年にインドでカリフの地位を守れと言うカリフ擁護運動としてヒラーファト運動(ヒラーファトとはカリフの地位という意味)が起こった。それは反英闘争の性格を持っていたので、ヒンドゥー教徒のガンディーも協力した。しかし、オスマン帝国の崩壊、続くトルコ革命によってカリフ擁護運動も衰退し、カリフは完全に消滅した。

参考 21世紀のカリフ国家復興運動

 9・11同時多発テロ、さらにイラク戦争で幕を開けた21世紀に、にわかにジハードという言葉が復活した。さらに、2010年暮れに始まったアラブの春は、アラブ世界の混迷をさらに深め、いわゆるアラブ過激派の運動の第二世代とされる動きが活発となった。その中で世界の耳目を集めたのが、イラク・シリアの国境を越えた地域に成立した「イスラーム国」の動きだった。2013年頃から動きを表面化させたイスラーム国は、かつてのヨーロッパ列強が「勝手に」設定した現在の国境とその上に成り立つ国家を否定して、本来のカリフを掲げたイスラーム教徒の自立した国家を復興させることをめざすと公言した。この「カリフの復権」は現状に不満な人びとの心をとらえたのか、またシリアがアサド政権軍と反政府軍の内戦状態にあったことから、たちまち一定の力を持つこととなり、一時は本格的な国家支配を行うまでになった。
 その後、イスラーム国はその支配域内での人権無視や文化財破壊などで国際的な非難を浴び、包囲網によってほぼ消滅するに至っているようだ。また彼らはイスラーム教徒ではない、という声もある。それでも彼らが「カリフの復権」を掲げたことは、カリフはイスラーム教徒にとって過去の歴史的な存在ではなく、現在においても一定の求心力を持っている言葉であることに気づかされた。
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書籍案内

鈴木董
『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』
1992 講談社現代新書

スルタン=カリフ制が虚構であることを明らかにした。


中田考
『イスラーム
生と死と聖戦』
2015 集英社新書

自らイスラームに改宗した筆者が、カリフとは何か、現代におけるカリフ制復活の意味は何か、さらにジハードとは、について心情を吐露している。