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アンティオキア/アンティオキア侯国

ヘレニズム諸国のセレウコス朝シリアの都の一つ。ローマ時代にはキリスト教五本山の一つが置かれる。シリア地方の中心的大都市であったがビザンツ、セルジューク、十字軍(アンティオキア侯国)、マムルーク朝、オスマン帝国と支配者が変わる間に衰退し、現在のアンタキヤはトルコ領の小都市となっている。

 ヘレニズム時代の前300年にセレウコス1世によって建設されたセレウコス朝シリアの首都で、セレウキアと並ぶ都。地中海東岸に近く、小アジアとメソポタミア地方を結ぶ東西の交易の中心として一時繁栄し、最盛期には人口50万をかぞえ、ヘレニズム世界最大の都市の一つでもあった。

キリスト教五本山の一つ

 セレウコス朝滅亡後は前64年にローマに併合され、属州シリアの中心都市としてシリア総督がおかれた。また、キリスト教が早くから伝道され、五本山の一つアンティオキア教会が置かれた。
 ビザンツ帝国の時代,、アラブ・イスラーム勢力の攻勢を受けるようになり、1084年にセルジューク朝に支配された。そのころのアンティオキアは、イスラーム教徒・ユダヤ教徒の他に、キリスト教東方教会に属する、ギリシア正教会派、アルメニア教会派、マロン派、ヤコブ派などが混在していた。

十字軍とアンティオキア侯国

 小アジアにセルジューク朝が進出してくると、アンティオキアはビザンツ帝国との間の争奪戦の対象となったが、最も遅くまでビザンツ帝国にとどまり、ようやく1084年、セルジューク朝のマリク=シャーの時にマムルークである部将ヤギ=シャーンガ武将が支配者となった。
 1098年第1回十字軍に包囲される中、6月3日にヤギ=シャーンの側近の鎧師が内部から手引きしたため、アンティオキアは陥落した。アレッポやダマスクスなどシリアの他の都市にはセルジューク朝の一族がそれぞれ支配していたが、互いに争っていたため、アンティオキアは支援を受けることができなかった。<アミン・マアフーフ『アラブの見た十字軍』リブロポート p.39-62>
  アンティオキアは十字軍の指揮官の一人ボエモン(ボエモント)がアンティオキア侯に任じられ、アンティオキア侯国としてイェルサレム王国を宗主とする十字軍国家の一つとなった。初代ボエモン1世はアンティオキア攻略戦で十字軍に最初の勝利をもたらし、イェルサレムへの道を開いた騎士として著名であった。その子ボエモン2世はアラブ軍との戦いで捕虜となり、首を切られてカリフのもとに届けられた。アンティオキア公国は娘のアリックスが嗣いだが、アルメニア人を母とした彼女は、1144年、もう一つの十字軍国家エデッサ伯国を倒したザンギー朝に同調しようとしたため、イェルサレム王国に討たれた。その後、アンティオキア侯にはアンジュー伯フルク、アキテーヌ出身のレイモンなどフランス人騎士が任じられ、十字軍の基地として維持された。

アンティオキアの壊滅

 十字軍が占領した都市の中で最大であり、1098年以来、170年にわたってムスリムの君主のすべてに抵抗してきたアンティオキアであったが、1268年、エジプトから北上したマムルーク朝バイバルスによって破壊された。
(引用)5月18日の夕方、城塞から程遠からぬ壁の中に割れ目ができ、バイバルスの部隊は市内になだれ込む。この征服は、サラディンの征服とは様相をほとんと一変する。住民は全員殺されるか奴隷にされ、都自身も完全に破壊される。天下に名をとどろかせた大都市も、残るは廃墟が点在する一寒村だけとなり、それも歳月が緑野の下に埋めていく。<アミン・マアルーフ『アラブの見た十字軍』リブロポート p.376>
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ノートの参照
1章2節 ケ.ヘレニズム時代
書籍案内

アミン・マアルーフ
/牟田口義郎・新川雅子訳
『アラブが見た十字軍』
ちくま学芸文庫