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五本山

地中海世界に広がったキリスト教の五つの拠点。

 キリスト教が西アジアから地中海各地に広がり、ローマ帝国によってキリスト教の国教化がなされると、ローマ帝国末期には5つの管区に別けて教会と信徒を管理するようになった。その5管区の大司教がおかれた教会を五本山といい、ローマ教会コンスタンティノープル教会アレクサンドリアイェルサレムアンティオキアがそれである。 → 五本山の位置

五本山の成立

 キリスト教がローマ帝国で非公認の宗教団体として弾圧されながら、都市型の宗教として宗教運動を浸透させるながら、教会制度が生まれた。その中心をなす聖職者は、主教(エピスコポス)―司祭(プレスビュテル)―補祭(ディアコノス)の職能(政教用語では神品、しんぴん)が2世紀ごろまでに定まった。  ディオクレティアヌス帝の時、帝国は約100の属州に分けられ、それが12の管区で統括されるという新しい行政区分が設けられると、主教が管轄する区域すなわち「主教区」もその行政区分に準じておかれる原則となった。属州の有力都市はメトロポリスと呼ばれたのでの主教は「府主教」(メトロポリテース)と呼ばれるようになった。
 325年のニケーア公会議の頃にはすでにローマ、アレクサンドリア、アンティオキア、エフェソスのほかにトラキアのヘラクレイア、ポントスのカイサレイアなどが府主教座が置かれた。さらに4~5世紀に、メトロポリスの中で特に有力な都市の府主教に対して「大主教」(アルキエピスコポス)、後に「総主教」(パトリアルケス)という敬称が用いられるようになった。
 4世紀初頭には、総主教のトップはペトロやパウロが殉教したローマ、帝国の首都であったローマの総主教であり、次にアレクサンドリア、アンティオキアと続き、のちにコンスタンティポリスとエルサレムの主教が「総主教」の仲間入りをする。ことに4世紀前半、コンスタンティノポリスが帝都となったことにより、その総主教がローマに次ぐ名誉上の地位を得ることとなった。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.12-15>

コンスタンティノープル教会

 コンスタンティノープル教会は、当初はヘラクレイアの府主教の管轄下にあったが、381年年にコンスタンティノポリス公会議が開催され、「コンスタンティノープルの主教はローマの主教に次ぐ名誉上の地位を有する。なぜなら、そこは新しいローマだからである」と宣言した。これによってコンスタンティノープル教会は、アレクサンドリアとアンティオキアより上位の地位を占めることとなった。<久松『上掲書』 p.19>

イスラームの侵攻後

 7世紀以降になるとアレクサンドリア、イェルサレム、アンティオキアの三教会がいずれもイスラームの支配下に入って衰え、残ったローマとコンスタンティノープルの二教会が激しく首位権を争うようになった。8世紀に聖像崇拝問題を巡って東西両教会は対立するようになり、最終的にローマ=カトリック教会ギリシア正教(正教会)として分離する。 → 教会の東西分離
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