印刷 | 通常画面に戻る |

ピピン

フランク王国の宮宰カール=マルテルの子で、小ピピンとも言う。メロヴィング朝に代わり、751年、カロリング朝をひらいた。756年にはローマ教皇に領土を寄進し、ローマ=カトリック教会との関係を強めた。その子がフランク王国最盛期のカール大帝。

 フランク王国カロリング朝初代の国王。751年ピピン3世として即位。小ピピンとも言う。メロヴィング家の宮宰であるカロリング家のカール=マルテルの子。祖父を中ピピン(ピピン2世)、中ピピンの祖父を大ピピン(ピピン1世)というのに対し、小ピピン(ピピン3世)という。また彼はたいへん小柄であったためともいう。

カロリング朝を創始

 父に続いてフランク王国メロヴィング朝の宮宰であったピピンは、ローマに使節を送り、実力のあるものが王となることの可否を問うたところ、ローマ教皇ザカリアスは、それを正当であると認めた。それを聞いたピピンは、751年、メロヴィング朝の王を追放し、みずからフランク王国の王位についた。これがカロリング朝の創始である。その即位式で、彼は大司教ボニファティウスから塗油を受けた。これはピピンが聖なる王として君臨し、ローマ教皇を守護することを任務とするキリスト教国家として出発したことを意味している。
 同じ751年、北イタリアに入ったランゴバルド人が、ビザンツ帝国の総督府のあったラヴェンナを占領、総督府は撤退し、ビザンツ帝国の北イタリア支配の拠点が失われた。それはローマ教会にとっても保護者を失ったことになるので大きな転機となった。

ピピンの寄進

 754年、ローマ教皇ステファヌス2世は、カロリング朝フランク王国を承認し、フランク王国は新たなローマ教会の保護者としての役割を期待されることになった。ピピンはその期待に応えて、北イタリアに遠征してし、ローマ教会を圧迫していたランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪い、756年にローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)した。これはローマ教皇領の始まりとなるものであり、ローマ=カトリック教会の基盤が安定したことを意味していると同時に、これによってカロリング朝フランク王国を保護者として結びついたことが完全なものになり、ローマ教皇はコンスタンティノープル教会などに対する優位を確立することとなった。

Episode ピピンの大中小

 フランス史ではピピン(フランス語ではペパン。Pipin はドイツ語表記)という名の歴史上の人物は3人いて、それぞれ大ピピン、中ピピン、小ピピンといわれている。世界史では大ピットと小ピットの親子が有名だが、3人のピピンは互いに祖父と孫という関係にある。高校の教科書に出てくるピピンはこのうちの小ピピンであるが、「小」というのは実際に彼の身長が低かった事による。だから、「短躯王」なととも言われる。父のカール=マルテルと子のカール大帝は偉丈夫だったので、突然変異か。小柄だったが、カロリング朝を開くという大事をやった人物だ。
ついでにあとの2人についても紹介しておこう。
大ピピン 老ピピン、ピピン1世ともいう。7世紀初め頃のメロヴィング朝の宮宰となった人物で、カロリング家の基礎を築いた。このころメロヴィング朝は内紛が激しく、西ゴート生まれのブルンヒルデという王妃が摂政として一族を次々と殺し、恐れられていた。大ピピンは先王の子クロタール2世を立ててブルンヒルデを倒し、混乱を鎮めた。しかしそれ以後のメロヴィング朝の王は無能なものが多く、酒色に溺れ、実権は宮宰のカロリング家が握ることになった。
中ピピン ピピン2世とも言われる大ピピンの孫で、7世紀の終わりごろ、他の有力な宮宰(この頃までは宮宰が複数いた)との戦いに勝って、唯一の宮宰としての実権を握った。中ピピンがマーストリヒトの豪族の娘との間に生んだ庶子がカール=マルテルであった。

ピピンの子カール

 カロリング朝フランク王国は、ピピンの子のカールが774年にランゴバルト王国を滅ぼし、さらにアヴァール人を撃退するなどの成果によって領土を拡げ、ほぼ西ヨーロッパ全域にその力を及ばした。それによって800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝の帝冠を与えられ(カールの戴冠)、かつてのローマ帝国と同じ立場に立つこととなった。
印 刷
印刷画面へ