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ピピン

751年、カロリング朝をひらいたフランク王国の王。ローマ教皇に領土を寄進し、ローマ=カトリック教会との関係を強めた。

 フランク王国カロリング朝初代の国王。751年、ピピン3世として即位。小ピピンとも言う。メロヴィング家の宮宰であるカロリング家のカール=マルテルの子。祖父を中ピピン(ピピン2世)、中ピピンの祖父を大ピピン(ピピン1世)というのに対し、小ピピン(ピピン3世)という。また彼はたいへん小柄であったためともいう。

カロリング朝を創始

 父に続いてフランク王国メロヴィング朝の宮宰であったピピンは、ローマに使節を送り、実力のあるものが王となることの可否を問うたところ、ローマ教皇ザカリアスは、それを正当であると認めた。それを聞いたピピンは、メロヴィング朝の王を追放し、みずからフランク王国の王位についた。これがカロリング朝の創始である。その即位式で、彼は大司教ボニファティウスから塗油を受けた。これはピピンが聖なる王として君臨し、ローマ教皇を守護することを任務とするキリスト教国家として出発したことをたことを意味している。カロリング朝フランク王国は、ピピンの子のカール大帝が800年にローマ帝国皇帝の帝冠を与えられ(カールの戴冠)その支配権を西ヨーロッパ全域に及ぼした。

ピピンの寄進

 ピピンは北イタリアに遠征してし、ローマ教会を圧迫していた北イタリアのランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪い、754年にローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)した。これによってカロリング朝フランク王国はローマ=カトリック教会の保護者として結びつきを完全なものにし、ローマ教皇はコンスタンティノープル教会などに対する優位を確立することとなった。

Episode ピピンの大中小

 フランス史ではピピン(フランス語ではペパン。Pipin はドイツ語表記)という名の歴史上の人物は3人いて、それぞれ大ピピン、中ピピン、小ピピンといわれている。世界史では大ピットと小ピットの親子が有名だが、3人のピピンは互いに祖父と孫という関係にある。高校の教科書に出てくるピピンはこのうちの小ピピンであるが、「小」というのは実際に彼の身長が低かった事による。だから、「短躯王」なととも言われる。父のカール=マルテルと子のカール大帝は偉丈夫だったので、突然変異か。小柄だったが、カロリング朝を開くという大事をやった人物だ。
ついでにあとの2人についても紹介しておこう。
大ピピン 老ピピン、ピピン1世ともいう。7世紀初め頃のメロヴィング朝の宮宰となった人物で、カロリング家の基礎を築いた。このころメロヴィング朝は内紛が激しく、西ゴート生まれのブルンヒルデという王妃が摂政として一族を次々と殺し、恐れられていた。大ピピンは先王の子クロタール2世を立ててブルンヒルデを倒し、混乱を鎮めた。しかしそれ以後のメロヴィング朝の王は無能なものが多く、酒色に溺れ、実権は宮宰のカロリング家が握ることになった。
中ピピン ピピン2世とも言われる大ピピンの孫で、7世紀の終わりごろ、他の有力な宮宰(この頃までは宮宰が複数いた)との戦いに勝って、唯一の宮宰としての実権を握った。中ピピンがマーストリヒトの豪族の娘との間に生んだ庶子がカール=マルテルであった。